ちょっと一息、もできない席
鼻を抜けるハーブの香りとほんのり甘みのある味わいを楽しみながら、目の前に置かれたクッキーへと手を伸ばす。さくっと微かに音がなり、遅れてバターの旨味が口いっぱいに広がれば、自然と口元も緩む。
「……うちの方が美味くないか?」
「ここのも十分美味しいです」
味の余韻に浸っていたソフィアの幸せなひと時をぶち壊してくれたのは、ソフィアの向かいの席でコーヒーを飲んでいるクレイズだ。ソフィアは遠慮なく手に持っていた紅茶のカップを置き、クレイズを睨みつける。
商店街に並ぶ店を一軒一軒覗き、時に店員と言葉を交わしながら時間を潰したソフィア達は少し遅い昼食をとり、一息ついていたところだ。
クレイズは言葉通りソフィアについてくるだけで何か要望を口にすることもなかった。ただ黙ってついてくるためソフィアがたまにクレイズの存在を忘れてしまうほどである。
ソフィアは陳列された商品を眺められればよかったのでクレイズの態度にホッとしていたのだけど周りの人は違ったようで、ソフィアと会話をしていた店員がクレイズに話を振ったり、あからさまにクレイズに発破をかけたりしていた。どうやらソフィアとクレイズをカップルか何かだと勘違いしているらしい。
確かに恋人関係にあるのならソフィアとクレイズの様子は見ていられないほど冷え切っていただろう。言葉一つ交わさず、ニコリともしない……喧嘩したばかりのカップルにでも見えたのかもしれない。
しかし実際はそれよりもっと複雑だ。まだ喧嘩したカップルの方がいいだろう。
ソフィアとクレイズーーこの二人の関係を表す言葉をソフィアは知らない。まぁ、敢えて言うなら『雇い主と従業員』か。しかし、その二人が一緒に歩いていても『デート』という表現にはいたらないはずだ。だが、ソフィアの目の前でクッキーを頬張っている男は『デートする関係』を求めているのである。
「あぁ……駄目だ」
力なくテーブルに突っ伏したソフィアから「ゴンッ」と鈍い音が聞こえる。勢いを抑えきれず額をテーブルにぶつけたようだ。
「おい……大丈夫か?」
呆れを含んだ声がソフィアにかかるが、ソフィアは返事をしなかった。大丈夫ではないからだ。それもクレイズの所為で。無視したくなるのも致し方ないだろう。
しかし、クレイズは何を思ったかテーブルの上に乗っかっているソフィアの頭にそっと優しく手を置いた。これにはソフィアも驚き飛び起きる。
「な、な、な、なにを!?」
「あ、いや、つい?」
「つい? ってなんですか、ついって」
「なんか疲れてるようだったから」
それは貴方の所為だ! と噛み付き返したい衝動に駆られたソフィアだったが、そこは懸命に抑えた。一応心配してくれている人に対してあまりにも失礼すぎると頭の冷静な部分がソフィアに訴えてきたからだ。
それに、全部が全部クレイズの所為ではないこともソフィアはしっかり理解していた。クレイズが向けてくれる好意的な感情をうまく消化できないのも、向き合えないのもソフィアが悪いのだ。だが、悪いとはわかっていてもそう簡単に受け入れられないのも事実で、怒涛の攻撃を繰り出してくるクレイズに腹を立ててしまうのも止められない。
「さすがに今日は強引すぎたか」
「……」
「でも意識してもらわなきゃダメらしいしなぁ」
「……それもハーヴェイ様の教えですか?」
「いや? これはセルベト」
ソフィアは再びテーブルに突っ伏した。ソフィアの瞳に若干水の膜が張る。
悲しいのではない。強く打ち付けすぎたのだ。決して羞恥心やら絶望の類でこうなったわけではない。そう意味もなく心の中で言い訳してみる。
「セルベト様は何をお考えに……」
「さあな。でも、俺の協力者というよりは支援者って感じか」
「なんの支援ですか」
「ん? まぁ、いろいろだな」
若干はぐらかされた感が否めないが、コーヒーを飲みはじめたクレイズにソフィアは追求することを諦めた。ただ精神的に疲れただけでもある。
「それで、この後はどうするんだ? もう帰るか?」
「強引すぎたとか何とか言いながら、まだついてくる気ですか?」
「あー、そうだな。俺がいたら行けないところもあるか。つっても、お前、午前中顔だした店は買い物と言うより視察も入ってるだろ」
ソフィアはギクリと肩を揺らした。お店の品物を眺めるのは楽しいし、気に入った物があれば買いもする。しかし、クレイズが言う通り、一軒一軒顔を出し商人と言葉を交わすのは物の流れから情勢を探るためでもあった。
穢れがなくなり各国に復興の兆しが見えはじめた今、市場には今まで入らなかった品々も入荷するようになった。食材なども手に入るようになり、ソフィア達の店も品数が増えたくらいだ。
だが、このヘルムリクトという町はハデスト帝国に近いことから、ハデスト帝国からの品々も多いのだ。ということは、ハデスト帝国に出入りする者も多いということである。
商人の証言は侮れない。物を売るには情勢に敏感でいなければならず、情報網もかなりしっかりしているのだ。
今、ハデスト帝国はティライス王国の属国になるかならないかの瀬戸際にいる。世界を危機に陥れた皇帝はティライス王国第二王子によって失脚させられ、関わった貴族や騎士、魔術師も次々と処罰されたため臨時でティライス王国から人を送り国を成り立たせている状態なのだ。
ティライス王国はハデスト帝国に対し相手が不利となる条件を出しているわけじゃない。どちらかといえば貿易量は増加し、物の動きが活発化したことで両国共に利益を得ているくらいだ。
しかし、全ての帝国民がそれを喜んでいるとは言い切れない。だからこそ警戒は怠れず、今でもハデスト帝国に『影』が送り込まれているのである。
「気づかれないとでも思ったか。これでもあっちで一緒に仕事した仲だからな。なんとなくわかる」
「それで、なにが言いたいんです?」
思わずソフィアは尖った言い方になってしまった。まさかまた辞めろと言われるのかと警戒したのである。だが、クレイズはソフィアの警戒を他所にあっけらかんと言い放った。
「別に? ただ本当に行きたいところはないのかと思っただけだ」
本当になんなんだ、とソフィアは思った。影の仕事に口出してきたと思えば、そんな事はなかったかのような口振りだし、黙ってついてきているだけだと思えば、ちゃんとソフィアの様子を観察している。
ソフィアはなんだか居た堪れなくなりカップに視線を落とした。
「最後に一軒だけ行って今日は帰ります」
「それはついて行っても?」
「……勝手にしてください」
「ん。じゃ、勝手についてく」
受け入れたわけではない。でも、ちゃんと自分と向き合ってくれている相手を無碍にもできず、ソフィアはクレイズに選択させた。
答えはわかりきっていたはずなのに、クレイズの回答に笑ってしまったのは何故だろう。




