夢を壊す男
貴族は基本的に身の回りのことを自ら行うことはない。着替え、食事、屋敷の掃除など生きる上で必要なあらゆる事を他者にやらせるのが当たり前である。オリビアのように傲慢な態度の者に仕えるとなると大変ではあるが、雇われる側にもそれなりにメリットがあるのでソフィアも全てを否定するつもりはない。
つまり何が言いたいかというと、平民の子供が簡単にできることを貴族にやれと言ったところですぐにはできない、という事だ。
「わかりました?」
「……わかった」
「……本当は?」
「もう一度くらい聞くと思う」
「……」
目の前にあるのは何の変哲もないサンドウィッチである。パンにサラダと卵とハムの挟まった、特別な事などする必要のない一番簡単な一品だ。何たって挟むものはすでに下ごしらえ済みで、挟むだけなのだから悩むこともないだろう。
そう思っていたのだが、ソフィアの考えは間違っていたらしい。サンドウィッチを睨みつけるクレイズは、恐ろしいものに遭遇したかのように若干腰が引けている。本人は気づいていない様子なのであえて触れることはしないけれど。
様々な角度から観察しているクレイズの前からサンドウィッチを取り上げ皿に盛ったソフィアは、ずいっと皿をクレイズへ突き出した。
「まぁ、おいおい覚えてくれればいいです。では、三番テーブルにお届けお願いします」
「あ、ああ」
皿を手に歩く姿は様になっている。クレイズが店で働く事になって最初に教えこまれたのが立ち方と歩き方だ。クレイズがだらしない立ち振る舞いになるのは、特異体質の能力をコントロールするには多すぎる魔力を大きな魔石に吸い取らせているからだが、その事情を知っているのはサリーナとソフィアだけで、客に店員の事情は関係ない。
接客業をする以上、客に不愉快な思いをさせるだろう立ち振る舞いは矯正する必要があった。指導を担当したのはサリーナだったが、なかなか大変そうだとソフィアは思っていたのだ。しかし蓋を開けてみれば、翌日には見違えるほどの立ち振る舞いを身につけていた。
サリーナにどうやったのかと聞いてみれば、元々貴族に近い生活を送っていたから基礎はあった。あとは発破をかけるだけだ、と言ってニヤリと笑っていた。ソフィアは何だか恐ろしくなってそれ以上の追求をやめた。
それと、クレイズはコーヒーや紅茶を上手に淹れることができた。何でも引きこもっている際に飲みたくなったら自分で淹れるしかないからだそうだ。理由は残念だが、一から教える必要がなくなってソフィアはホッと息を吐いた。
「お待たせいたしました。サンドウィッチでございます」
「わぁ! ありがとうございます!」
「美味しそうだね! あ、そうだ……あのぉ、お名前を教えてもらえませんか!」
三番テーブルにサンドウィッチを運ぶだけの簡単な作業も、クレイズが行うと簡単ではなくなる。客が女性なら特にだ。今も女性二人組に絡まれクレイズはテーブルから離れられずにいた。
この店の制服には名札が付いてない。それはサリーナでもソフィアでも相手には違いがわからないからで、名前が違っても困る事がないからだ。
クレイズが働き始めてまだ数日しか経っていないが、女性の情報網は凄まじく、すぐに店はクレイズ目当ての女性客で溢れた。クレイズが言うには、店の周りにクレイズに対する認識をあやふやにする結界(キャメルの能力を応用したらしい)を勝手に張っているらしく、働いているクレイズを以前通っていた魔術師のクレイズと同じ人物だとは認識できないらしいが、クレイズの容姿はどうしたって目立つ。女性客の目的が店員のクレイズに変わるのは必然であり、客だから遠慮して声をかけなかった者も店員なら声をかけやすいのだろう。名札がついていないのもいい会話の材料になってしまっていた。
「名前ですか?」
「そう! 名前です!」
キラキラと目を輝かせる女性客はクレイズの次の言葉を若干前のめり気味で待っている。
ここでの正解は『笑顔で名前を教える』だろう。ソフィアなら何の抵抗もなくそうする。だが、クレイズは良くも悪くも接客初心者であった。
「名前知ってどうするんです?」
「え?」
「呼ぶ時は店員さんって呼んでくれればすぐに誰かが駆けつけますよ」
「あ、いや。貴方の名前が知りたくて」
頬を赤らめ上目遣いで告げる女性をクレイズは黙って見つめ返す。見つめ返された女性は、クレイズの容姿に見惚れているのかより顔を赤らめた。
そんな状況を見てソフィアはすぐに止めるべきだと思った。思ったのだが、生憎客に捕まっていた。サリーナをチラッと見るとサリーナも接客中である。その瞬間、ソフィアは心の中で女性客に謝った。夢を壊してすみません、と。
「俺の名前を知っても呼ぶ機会なんてないでしょう。それとも接客のご指名ですか? それはちょっと困るんでやめてもらいたいんですけど」
「ご、ご迷惑をかけるつもりは……。じゃあ、仕事以外なら」
「見ず知らずの人に馴れ馴れしく呼ばれたいとは思わないんで。というか、今この状況も迷惑だ」
「っ!」
言われて初めて気がついたのか、女性は周りを見て自分が目立っている事に気付き、顔を伏せると素早い速さで店を出て行く。同じテーブルに座っていた女性も慌てて後を追おうとしたが、クレイズがその女性の腕を掴んで止めた。
「サンドウィッチ代はいいけど、口つけたコーヒー代は払ってくださいよ」
「なっ! あなたの接客態度が悪すぎなのよ!」
「それとこれとは別だろう? 大体、客だからって店員に何してもいいっていうのか? こっちにだって選ぶ権利がある」
「あんた……ほんっと最低っ!」
叩きつけるように金を払い客が店を出て行く。ソフィアはこれで何組目かと頭を抱えたくなった。
クレイズは中性的な美しい顔立ちで、立ち振る舞いを直した事もあり、黙っていれば物語から抜け出た王子様のような見た目をしている。だから女性の多くはクレイズに夢を抱くのだろう。王子のように優しく紳士的な男性だと疑わず、度々声をかける者たちが現れた。
しかし実際のクレイズは真逆と言っていい。本来のクレイズは口が悪く、能力のせいもあってか人間を信用していない。よって相手に好意的な態度などとるはずもないのだ。
接客中はある程度抑えられているが、絡んできた相手には容赦がないのである。クレイズ曰く、面倒な客が来なくなれば少しは楽になるだろう、との事だ。
実際、まだクレイズが働き始めて数日だというのに、クレイズ目当ての客の数が減少した。まぁ、クレイズを観賞用にしている人は結構な数来ているようだが。
そんなわけで、クレイズの作戦通りなのか店は少しだけ落ち着きを取り戻しつつある。客の数は未だ多いが、クレイズがもっとしっかり働けるようになったら楽になってくるだろう。
ただあの性格のままだと問題が次から次へと起こりそうな気がしてならないのが、最近のソフィアの悩みである。
「その態度、もう少しなんとかならないんですか?」
バッグヤードに戻ってきたクレイズにソフィアは思わず問いかける。そこにソフィアの僅かな願望が入り混じっていることにクレイズは気づいているのか、いないのか。クレイズは器用に肩を竦めてみせた。
「これでも改善した方なんだけど」
「……」
悲しい事にソフィアは確かに、と納得してしまった。浄化の旅でのクレイズの態度を思えば、とても改善されている。例え接客業なのに笑顔一つ浮かべることができなくても、言葉遣いは敬語になっているし、立ち振る舞いは合格点を出せるのだ。
しかしどうしてもソフィアの頭から消えてくれない疑問がある。それはーー
「そこまでしてこの仕事をやる必要あります?」
欲しいものがあるから王宮魔術師を続けると言っていたはずじゃないか。こんな慣れないことをする必要などどこにある。
「ある。なんたって俺にとっては最後のチャンスになりそうだから」
そう言ってクレイズはサリーナをチラッと盗み見る。
ソフィアはクレイズの言っている意味がいまいち理解できない。だけど、クレイズの様子からして、サリーナなら知っているのかもしれない。そう思った瞬間、ソフィアの中でもやもやと言いようのない感覚が生まれたのだが、それがなんなのかソフィアにはわからなかった。




