今の生活、楽しいか?
《ごめん、ソフィア! 今ちょっと手が離せないから接客お願い!》
もうすぐ閉店時間のため、少しずつ片付けを始めていたソフィアの頭にサリーナの声が飛び込んでくる。
確か店の中には一組のカップルだけだったな、と思いながらサリーナに了承の言葉を伝え、ソフィアはホールに出る。そのタイミングで、カランカランーーと扉が開いた事を知らせるベルの音が響いた。
「いらっしゃい、ませ」
いつもの時間帯に来なかった事もあり、今日は来ないのだと勝手に思っていたのだが違ったようだ、とソフィアは内心ため息を吐く。
今日も今日とて、フードも被らずクレイズはやって来た。お決まりになりつつある店の奥にあるテーブルの椅子に腰を下ろしたクレイズはコーヒーを注文し、本を開く。
もう閉店時間ギリギリなのだが帰ってくれるのだろうか、と一抹の不安がソフィアの頭をよぎる。
そんな時、最後の一組だったカップルがお会計をしたいと言ってきた。突然だな、と感じたものの、彼女がチラチラとクレイズを盗み見ていることに気づき納得する。ある意味、彼氏の判断は正しい。
一瞬の静寂が訪れ、遅れてコーヒーを淹れる音が店に響く。なんとなくソフィアは片付けの続きをするでもなく、黙ってコーヒーが落ちるのを眺めていた。
ポタ、ポタ、とコーヒーが落ちていく。静かに、一滴一滴、豆から旨味をじわじわと引き出しながら、何もなかったところに溜まっていく。
ソフィアがコーヒーのブラックを飲めるようになったのはつい最近だ。基本的に紅茶の方が好きで、コーヒーを飲むとしてもミルクと砂糖が必要だった。だけど、今は苦味も美味さの一つなのだと理解できる。まぁ、何杯も飲めはしないけれど。
「お待たせいたしました」
「ん」
出来上がったコーヒーをいつもの様にクレイズの斜め前に置く。本から視線を外さず、クレイズはコーヒーへと手をのばした。
「今日は、来ないのだと思ってました」
カップに口をつけた状態でクレイズの動きが止まる。コクリと一度喉を鳴らしたクレイズは、本から視線を外しソフィアへと向けた。若干眉間に皺が寄っているその表情を見て、ソフィアは余計なことを言ってしまったとすぐに反省する。
「あっ、申し訳ありません。余計な事をーー」
「今日が最後の仕事だったんだ」
「……へ?」
突然の報告にソフィアは間抜けな声を発した。ぽかんと口を開けているソフィアを見て、クレイズがふっと小さく吹き出す。ソフィアが初めて見る表情だった。
「当初から二週間ほどで終わる仕事だろう事はわかってたんだ。防衛の要であるヘルムリクトの結界の張り直しやら何やら……俺じゃなくてもできそうな事までやらされた」
セルベトめ……こき使いやがって、とクレイズは毒づいた。たしかにクレイズはティライス王国一の魔術師で、結界を扱わせたら右に出る者などいないだろう。それは特異体質の能力から心を守るために仕方なく身につけたものかもしれないが。
だが、クレイズが言うように、ヘルムリクトの結界はクレイズじゃなくても張れるはずだ。防衛の要でもあるヘルムリクトには他の街と違い魔術師が配備されている。そのためヘルムリクトの結界は彼らが管理しているのだ。
王都のようにいかなる攻撃にも耐えられる多様性と頑丈性を兼ね備えた複雑な結界ならばまだしも、普通の魔術師が扱えるほどの結界しか張られないヘルムリクトにクレイズが来る必要があるのだろうか。
「旅が終われば自由だ、とか言ってましたけど、やっぱりセルベト様は手離してくれなかったようですね」
ソフィアは何とも言えない表情を浮かべる。
セルベトの愛国心は凄まじい。そうなるだろうとは薄々思っていたが、やはりクレイズに自由は訪れなかったようだ。さぞ悔しかっただろう。
しかし、クレイズの返答はソフィアには意外なものだった。
「いいや、俺があの場にとどまることを選んだんだ」
驚きでソフィアは目を見開いた。
面倒臭がりのクレイズがあんなに大変な任務を引き受けてまで欲しがっていた『自由』を選ばなかったという。
「……なぜ?」
クレイズの返答に「へぇ、そうなんですか」と適当に相槌を返せばいいはずなのに、ソフィアは自然と質問していた。
「それは……」
パタンと本を閉じる音が店に響き渡る。ソフィアは思わず音を発した本へと視線を向けたが、クレイズが突然席を立ったことで慌てて視線をクレイズに戻そうとし、中途半端な体勢で固まった。
ギギギッと錆びついた機械のようなぎこちなさで自分の手元に視線を落とす。そこにあったのは、大きな手に包み込まれている自分の手、という今の流れからでは到底理解しがたい光景だった。
何度も繋ぐ機会はあった。この手に命を救われ、自分が救いもした。
慣れたはずだった。でも、違ったようだ。
当たり前か、とソフィアは混乱しながらも、頭の片隅で静かに納得する。
だって、あれは……任務だったから。
急激に身体が熱くなるのをソフィアは他人事のように感じていた。何を言えばいいのかわからず、はくはくと口を動かしているのに音は出ない。
自分の手を包みこむ力は振り払えるほどのはずなのに、痺れたように身体が動かない。
自分が自分じゃない気がする。頭と身体が離れ離れのような、金縛りにあっているような、そんなかんじだ。
しかし、対するクレイズは憎たらしいほど涼しい顔のままだった。
「それは、欲しいものを手に入れるために必要だったからだ」
「じ、自由……よ、り?」
自分でも呆れてしまうような声がソフィアの口から漏れる。
自由より欲しいものとは何か。それより、何故手を握られているのか。ソフィアの思考はまとまらない。
「あぁ。例え国に飼い殺しにされたとしても、欲しいものができたんだ」
ソフィアは夜空の中に吸い込まれそうな感覚に陥っていた。クレイズの向けてくる強いその眼差しから、ソフィアは逃れるすべを思いつかない。
ドクドクッと煩いほどに自分の心臓の音が聞こえてくる。すごく胸が苦しくて、それでも今聞かなければいけない気がしてソフィアは口を開く。
「貴方の欲しいもーー」
しかし……
カランカランーー
「サリーナ! コーヒー貰えるかい?」
勢いよく開いた扉のせいで盛大に鳴り響いたベルの音と満面の笑みを浮かべて入ってきた男の声によってソフィアの言葉は最後まで音になる事なく飲み込まれてしまった。
店に入ってきた男、ハーヴェイはサリーナを探すように店内の様子を見回し、ある一点を見つめたまま固まる。
「あ、これ……やっちゃった? うおぉおお!!」
ハーヴェイはそれはもう素晴らしい反射神経で、若干仰け反りつつも後方へ飛んだ。
ハーヴェイが先ほどまで立っていた所には、幾つものナイフやフォークが刺さっており、シューっと恐ろしい音と共に床が焼け焦げた匂いまでしている。
「悪かったよ! 悪かったけど二人同時に攻撃してくることあるか!?」
「空気を読みなさいよっ」
若干ハーヴェイの顔色が悪く見えるが、それも仕方ないだろう。サリーナには店のカウンターの陰からナイフとフォークを、クレイズからは雷を落とされたのだから。
サリーナは『影』である。日頃、ニコニコと柔らかな笑顔を浮かべているため忘れがちだが、しっかりと戦えるよう訓練されている。そのサリーナが殺気を消すこともなく攻撃したのだ。今まで足繁く通ってくるハーヴェイを迷惑そうにすることはあっても、攻撃したことはなかったというのに……正直ソフィアもびっくりである。
それに、何故クレイズもハーヴェイに攻撃したのか。ハーヴェイは理解しているようだが、ソフィアは理由がわからず首を傾げた。
「はぁ……」
頭上から重々しいため息が聞こえ、ソフィアは我に帰る。先ほどのハーヴェイへの攻撃のおかげか、身体と頭の熱がじわじわと引いていた。
ソフィアは掴まれていた手をすっと振り払う。それほど強い力ではなかったはずだが、クレイズの手はなんの抵抗もなく外れた。
クレイズが一瞬手元に視線を落とし、キュッと拳を握ったことにソフィアは気づかなかった。
「ごちそうさん」
そう言ってテーブルにコーヒー代を置いたクレイズが、ソフィアの横を通り過ぎて行く。ふわりとクレイズの香りが鼻をかすめ、ソフィアは自然とクレイズの動きを目で追った。
「おい、帰るぞ」
「え? 俺来たばかりなんだけど」
「うるせぇ」
問答無用でクレイズはハーヴェイの首根っこを引きずっていく。帰還してからハーヴェイとクレイズが共にいるところを見るのは今日が初めてで、いつの間にあんな事をする程仲良くなったのか、とソフィアは意外に思いながら二人を見送る。
すると視界の青が揺れると同時にクレイズがソフィアの方へと振り返った。
「なぁ。今の生活、楽しいか?」
思いもよらない質問にソフィアはきょとんと間抜けな顔をした。今度は何だ、とソフィアは怪訝に思う。答える必要などあるのだろうか、とも。
しかし、僅かに瞳を揺らし、どこか緊張した面持ちのクレイズを見ていると、返さないという考えには辿り着けなかった。
「そうですね……」
『影』の仕事ではあるけれど、他の誰でもなくソフィアとして隠れることなく生きている。好きな事を好きと、やりたい事をやりたいと素直に言えている。憧れの世界は眩しすぎて、たまに怖いと思うこともあるけれど。
「はい。楽しいです」
何もかもから逃げていた昔の自分には戻りたくないと思えるほどに、ソフィアは今の自分を気に入っている。
「そうか。ならいい」
ふわっとクレイズが口元を緩めた。決して満面の笑みではない。それでも、今まで見たクレイズの表情の中で、一番優しく温かみのある微笑みだった。
ナイフとフォークは投げるものではありませんので、良い子は真似をしないようにしてくださいね。
サリーナより




