ノエルという男
光の一つもない空間に耳を劈くような叫び声が響き、続いて固いものがぶつかる鈍い音が耳に届く。
手に残る感触を確かめたソフィアは、止めていた息を長く吐き出し、肩の力をふっと抜いた。
《サリーナ、終わったわ。キャメルに伝えて》
《わかった。お疲れ様、ソフィア》
サリーナの声が頭に届くと同時に、壁の隙間や窓から光が差し込んでくる。襲ってくる眩しさに一瞬目を細めたソフィアの足元には、すでに声を発することのなくなったアスベルが倒れていた。
「間に合ったか」
「えぇ。山場は越えたけれど、本命はこれから」
クレイズの言葉にソフィアはただ静かに答える。ソフィアに視線を向けられた茶髪の男、ノエルは僅かに眉を歪めるものの、大して表情を変えることもなくソフィアを見返した。その赤い瞳に動揺や恐怖というものは感じられない。仲間なはずのアスベルが目の前で倒されているというのにだ。
「ノエルさん、と呼んでも?」
「……別に、好きにすればいい」
初めて言葉を発したからか僅かに掠れた声のノエルは、感情のない瞳のままソフィアを見つめ続ける。
「ノエルさんがハデスト帝国に協力したのは、なぜ?」
ソフィア達がどんなに調べてもノエルについては能力以外知ることができなかった。城に潜入してもノエルの事を噂として知っている者はいても、詳しい者はおらず、ノエルと関わっているのは本当に限られた人物しかいなかったようである。
ハデスト帝国の貴族を調べてはみたが、ノエルとして該当する者もいなかったため、ノエルは平民で連れてこられたという可能性が一番高かった。しかし、キャメルの透視で見る限り、拘束されている様子もなく、逃げる様子もないため無理矢理連れ去られたというのも考えにくい。結局、ソフィア達はノエルの目的が全くわからなかったのだ。
「ノエルさんの目的は?」
「……俺は、ただ生き抜くために協力していただけだ」
「生き抜くため?」
「俺は食べることすらままならない程に貧しかった。そこに転がってる男が突然現れて、食べ物や住むところを与えてくれると言うからついて来ただけだ」
倒れているアスベルを顎で指し示す態度からも、アスベルと良好な関係を築けていたようには思えなかった。それからノエルは短く簡単な言葉で、まるで他人の話をするかのように自分の事を話し始めた。
ノエル曰く、自分は身体も弱く、貧しい故に明日をどう生きるかさえもわからない状態であったらしい。何度も死んだ方が楽かと考えたが死ぬ勇気もなく、動く元気もない。
そんな時にアスベルがやって来た。アスベルはただ自分の側にいてくれれば住む場所と食事を与えてくれると言った。自分にどのような価値があるのかわからないが、ノエルは生き残るためにその申し出を受け入れた。
外で何が起こっているのかは知らされていなかったという。ただ、急に今日の朝、アスベルから自分の命を狙う者がいるから城から一時的に避難すると連れ出されたそうだ。
「俺の命を狙う者というのがあんた達何だろう? 別に俺は抵抗しない。自分では捨てられない命だ。ちょうどいいくらいだよ」
さぁ、一思いにやってくれ、と言わんばかりにノエルは目を瞑り、その時を待っている。しかし、一向に訪れないその時を不審に思い、ノエルは薄っすらと目を開けた。
「……殺さないのか?」
「私達はノエルさんの命を奪いに来た訳じゃない。無抵抗な人を拘束する気もないしね」
「……」
状況が理解できず、ノエルは思い切り顔を歪ませる。初めて困惑という感情が表情を作り出した。そのことに思わずソフィアは苦笑いを浮かべる。
「私達の任務はあなたをある人物に会わせること」
「ある人物?」
「ええ」
その時、部屋の外から複数の足音が聞こえてきた。いつの間にか部屋の隅に飛ばしていたネックレスをつけ、フードを深くかぶったクレイズが外を確認する様子もなく扉を開ける。
「よくぞご無事で」
「あぁ。君達もご苦労だったな」
ソフィア達に労いの言葉を送ったのは、至る所に切り傷をつくりながらも、一切美しさを失わないクロードであった。その後ろには、小さな怪我は負っていながらも誰一人欠けることなく聖女一行の面々とキャメルが立っている。よく見れば、オリビアだけグッタリと疲れている様子を見せいるが、そんな様子を見ても、だから静かなのか、とソフィアは場違いな感想を抱いただけだった。
「それで、彼が例の人物なのか?」
「はい」
クロードに視線を向けられたノエルが僅かに肩を揺らす。やはりさすがは王族といったところか。相手の素性を知らなくても、ノエルはクロードの纏う王族としての威厳を敏感に感じ取っているようであった。
「ならば早速始めよう。城から追っ手が来るかもしれん。オリビア嬢、こちらに来なさい」
突然名前を呼ばれたオリビアはビクリと肩を揺らし、困惑した表情を浮かべるも、徐々に目を吊り上げていく。
「いい加減、この状況を説明してくださいませんか? なぜ聖女であるわたくしが命を狙われ、逃げなくてはいけませんの!? こんな森の中を走らされ、こんな屋敷に連れてこられ、全く意味がわかりませんわ! わたしくは聖女なのですよ! こんな扱いを受けて良いはずがありませんわ!」
膨れ上がった怒りが爆発したように、一気にまくし立てたオリビアは肩で息をしながら甲高い声を上げた。誰もが、また始まった、と小さく息を吐く。
本当ならば答えたくはない。どうせまた何かを言い返してくるだろうから。しかし、答えなければオリビアは動かないだろうことも皆が理解していた。だから、皆は説明してやってくれとクロードに視線を向ける。皆の視線を受けたクロードは、一瞬表情を歪めると大きく息を吐き出してからオリビアへ向き直った。
「ならば説明しよう。浄化の旅とは、ただ穢れた土地を浄化するだけが目的の旅ではない。最大の目的は、穢れを生み出す根源を断つことだ」
「穢れの根源を、断つ?」
「それが出来るのも聖女の力だけだからな」
それからクロードは、今まで起きた出来事をオリビアにわかりやすく説明し始めた。




