決戦前夜
木が鬱蒼と茂る森を抜けた先に街を見下ろせる丘がある。丘の上に広がる草はまるで緑の絨毯のようで、風が吹くたびに同じ方向へと靡いていく。雲ひとつない夜空には星々が瞬き、丘に立っていると飛べば手が届きそうなほどだ。
「いつまでここにいるつもりだ?」
空を見上げていたソフィアは、背後からかけられた声に反応し、ゆっくり振り返る。夜空をそのまま取り込んだような瞳と視線が絡んだかと思えば、すぐに目線を前へと戻した。
「先に帰ったんじゃなかったの?」
ソフィアの素っ気ない言葉に答えることなく、当たり前のように隣にやってきたのはクレイズだ。いつの間にかソフィアの横に並ぶようになったクレイズ。最初はその近い距離に戸惑いを隠せなかったソフィアも今では慣れてしまった。それもこれも、クレイズの協力する宣言から今日に至るまでの数日間、リリアとしての仕事中以外はほぼ一緒に仕事をしていたからに違いない。もちろん、時にはキャメルも一緒にだが。
ソフィアが情報を集め、その情報によって浮上してきた人物に近づきクレイズが能力を使う。クレイズが得る情報は人の心の声。諜報活動に長けているソフィア達ですら手に入れられなさそうな重要な情報も証拠が残っていない情報もクレイズの能力を使えば知ることができることもある。
もちろん、対象の人物がそのことについて考えていなければ知ることはできないが、必ず考えるだろうタイミング、例えば他の要注意人物と言葉を交わしている時、周りを気にしながら個室で密談している時などを狙えば確率は上がるのだ。
クレイズと仕事をすると簡単に重要な情報が手に入る。さすがのキャメルも初めてクレイズの能力を知った時、どこか遠くを見つめ僅かに肩を落としていた。きっと過去の過酷な仕事を思い出していたのだろう。
クレイズの能力は特異体質者のソフィアやキャメルから見ても、辛い出来事が多かっただろうことが容易に想像できる力だが、諜報員としては羨ましい力であることには違いない。羨ましいと言わないのは、クレイズが味わっただろう過去を思えば、そんな簡単に口にしていいことではないとわかるからである。
そんなわけで、順調に仕事をこなしてきたのだが、ただ一緒に仕事していたからクレイズが隣にいる事を気にしなくなった訳ではない。クレイズに触れる機会が多かったのだ。もちろん、肌と肌である。
もしも、以前キャメルの能力で城の中を覗いた際に見た茶髪に赤い瞳の男が、穢れを生み出す能力者だとした場合、近くには他者の能力を操れる能力者がいるはずだ。その人物を探すにあたり、クレイズがその人物に能力を使った場合、相手に気づかれる、ましてや能力を操られ封じられる可能性だってありえる。それだけは避けたかった。
そのため、ソフィアの『己に害をなす特異体質者の能力を無効化する』能力が活躍するのだが、ソフィアに大きな問題が立ちはだかる。ティライス王国でテッドの自爆を防いだ際もそうだったが、ソフィアの能力を他者にも適用できるようにするにはソフィアと直接触れ合わないといけない。
結果的に、ソフィアはクレイズと肌と肌を触れ合わせなければいけなくなったのだ。
テッドとの戦いの際は、聖女一行の命を守るためには仕方がないことだったし、一瞬の出来事であった。しかし、今回はクレイズが能力を使っている間はずっとである。
人を避けて生きてきたソフィアにとっては正に苦行。サリーナやキャメルならまだ許せるが、相手は男、それも口も態度も悪く、第一印象最悪なクレイズなのだ。ソフィアは思わず頭を抱えた。
二人で初めて仕事をする日。
ソフィアは無言でクレイズの額に手を当てた。暫しの沈黙の後、クレイズが一言
「集中の邪魔でしかない」
と訴え、却下となる。
続いて、ソフィアの手がクレイズの首にのびる、が、クレイズに両腕を捕まれ止められる。
「お前は俺を殺す気か」
思い切り呆れた目で告げられ、却下となる。
ソフィアなりに考えて考えて考え抜いて出した答えをクレイズに一言で却下され、ソフィアはうな垂れた。そして、クレイズも悪いのだと開き直る。クレイズは基本的に肌の露出部分が少ないのだ。肌が出ているのは顔周りと……
バッと手を掴まれ、ソフィアの思考は停止する。機械のようなぎこちなさで自分の手元を見れば、ソフィアの手に大きな手が被さっているではないか。
「これでいいだろう」
平然と告げるクレイズの言葉が右耳から左耳へと抜けていく。確かにクレイズの肌が露出しているのは顔周りと手だけだ。間違ってはいない。だが、ソフィアは敢えて気付かないフリをしていたというのに。
首を絞めているほうが(きっと加減はできないが)緊張しない気がする、と訴えたくて仕方がない。
「首は却下だからな」
何故かクレイズには思考が読まれる始末。もしやソフィアの能力が発動せず、クレイズに心を読まれたのかと一瞬思ったソフィアだが、すぐにクレイズが首を振る。
「能力はまだ使ってねぇ」
またしても思考を読まれ、そんなにわかりやすいのかとソフィアは自分の情けなさに落胆した。
こうして、仕事のたびにクレイズと手を繋ぐという試練をこなしてきたソフィアは、クレイズが横に並んで立つくらいでは動揺しなくなったのである。
「いよいよ明日、聖女一行が到着か」
「えぇ。勝つか負けるかで世界が変わる日」
丘の上から二人は無言で城を見つめる。
明日になれば全てが動き出す。今までならば、ただの仕事の一つくらいにしか思わなかっただろうに、今のソフィアは明日の仕事を考え、僅かに緊張していた。それは、今まで感じたことのない恐怖。失敗への恐怖だった。
自分の中にあるものは何も変わらないはずなのに、何かが変わってしまった気がする。
失うものなど何もなく、死すら恐れていなかったはずなのに、何かに恐れている。
今回の任務は今までの任務よりも重みが違う、世界がかかっているからか、とソフィアは考えてみたが、今まで世界がどうなろうとどうでもよかったのだ。そんなことで緊張するわけがない。
ふっと隣の男を盗み見る。女性なのかと思えるほどの中性的な美しい顔。口の悪さ。やる気のない姿勢。どれもこれもソフィアには受け入れがたいものだった。
でも今は、顔立ちは大して気にならなくなったし、口が悪いのも姿勢が悪いのも理由があると知ってしまった。それ以上に、素の自分をさらけ出せる相手になってしまった。クレイズの言動に大きく反応するようになってしまった。
ソフィアは変わった、変わってしまった。キャメルの言うように、自分はクレイズに何らかの影響を受けたのかもしれない。そう認めるほかなかった。
「……明日、ヘマしないでよ」
「お前こそな」
ソフィアが街へ戻ろうと踵を返し歩き出す。すると、その数歩後からクレイズがついてきた。ソフィアは顔を前に向けたまま言葉をかける。
「最後の晩餐はどうする?」
「……家で食う」
「そう」
僅かに口元が緩んだことをソフィアは気づかぬフリをした。




