貴方と
「ちょっ、ちょっと」
ジェノヴァの慌てた声が、人気のない廊下に響いた。
レイが彼女を引っ張り込んだのは、柔く仄かな月明かりが燦々と降り注ぐ、廊下の一画。大きな窓には、遠くの星の煌きが反射し、夏の香りを含んだ、夜の風が舞い込んでくる。
レイとジェノヴァ。
ふたり以外、そこには誰もいない。
淡い月光は、ジェノヴァ瞳を、ブルートパーズの宝石のように輝かせる。その海よりも透明で、空よりも澄んでいた。
レイは、彼女が欲しかった。
夜会前に、カルキに言われたことが、過ってしまって、最悪だ。
″ 少しでも油断したらダメだよ。隙あらば狙う輩はいっぱいいるんだから ″
愕然とするレイを残して、カルキは会場へと颯爽と去って行ってしまったのだ。彼の言葉の真偽はともかく、流石の彼も顔を引きつらせた。
「こ、ここじゃヤバイだろ。人来るからっ……!」
「来ねえよ」
そう一蹴して、一歩で間の距離をゼロにする。
「お、おいっ」
ジェノヴァがレイの服を掴んで、抵抗した時だった。ビリ、と嫌な音が響いた。
「……へぇ?」
ニンマリ。そんな言葉がぴったりなほど、レイはにやけ顔をする。その表情を見て、破れた服の端を持ったまま、ジェノヴァはあからさまに焦りだす。
「え、あれ。いや、すまん」
彷徨うジェノヴァの視線を、視界に回り込んだレイが、正面から捕らえる。レイの手が、ジェノヴァの背中に素早く回された。
「お前、そういうことなら、早く言えよ」
「ち、違っ!」
「シャイなのはいいけどよ」
「別にそういうわけじゃ!」
「俺の嫁になったんだから、もっと積極的に言ってくれていいんだぜ?」
レイの色気に当てられて、ジェノヴァはくらりと酔いそうになる。
「ちがーうっ!」
ジェノヴァの絶叫がする。
その叫びはレイの唇に吸い込まれた。レイが口を塞いだからだ。
一瞬離した唇の隙間から、「人が来るだろ?」という、おちゃらけたことを囁いて、反論も聞かずまたキスを落とす。
彼女からは、艶っぽい喘ぎが幾つも零れた。幾度もも角度を変え、次第に深くなってゆく口づけは、互いの温度を溶け合わせた。無意識の埒外で、ジェノヴァから洩れる吐息さえ、砂糖菓子を味わうようにレイは食む。
「この日を待ってた」
レイを見つめ返し、ジェノヴァは暫く黙っていたが、耐えきれなくなったのか、ふふ、と淡い微笑が溢れた。
「お……いや、私も」
少し恥じらいながら、ジェノヴァがレイの首の後ろに、腕を回す。
「私も、待ち焦がれてた。レイのお嫁さんになれたなんて、夢みたい」
自分にだけ見せる、彼女の表情、仕草、言葉。それを感じて、レイは歓喜に震え、ご機嫌で彼女を抱き締めた。その痛いほどの腕の強さに、ジェノヴァからは柔らかな笑い声が湧いては、溢れてゆく。
「ひゃっ」
ジェノヴァは、突然の浮遊感に驚いて、レイにしがみついた。
「夜はまだ、始まったばかりだろう」
「え? えっ」
慌てるジェノヴァの様子を面白がりながら、ジェノヴァを抱きかかえて、レイは軽い足取りで自室へと向かう。
ジェノヴァは、そっと目を閉じた。
レイと、初めて出会った時のことを思い出す。彼が、私にくれた本。それは、あの時も今も変わらない、『夏の夜の夢』──。
廊下を通りかかったメイドが、今日の主役であった王子の姿を目撃した。思わず彼女は立ち止まる。
扉の向こうへ身体を滑り込ます彼が、女を抱き締めていると分かると、思わず顔を赤らめた。手に持っていた、ワインボトルが入った氷水が揺れ、カシャンと華奢な音をたてる。
レイの視線が緩やかに、女性からドア、そしてドアからメイドへと、順々に滑った。
彼は彼女をしっかりと胸に抱えたまま、しっ、と人差し指を曲線を描く唇に当てて、片目を瞑った。
その仕草は、妖艶で、悪戯。
黄金のドアノブが回り、部屋の扉がゆっくり閉まっていく。
その間隙に、紅の眼光を残して。
Fin.




