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軍則第四条の罪人  作者: 南雲 燦
第五章
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貴方と




「イチ!向こうの方も頼む!」


 あくせく働くのは、見習い医師イチ。ユキの下で彼女と同じ宮廷公認医師を志している。そんな彼も大戦での怪我人の増加に対応すべく、ユキと一緒にかり出されてきた次第だ。何しろここ数年来で一番大きな戦い。怪我人対応に、ウルバヌス国中の医師や薬剤師、見習い医師までもこぞって駆り出されている。


 また一人手当てを終え、立ち上がった彼の視界に、見上げた先に見知った人の姿が飛び込んできた。救急用具片手にイチは立ち止まって、その背中を眺めた。背筋が伸びている。凛々しく、美しい立ち姿だ。思わず惚けたように見つめていたイチの隣に、ユキが静かに並んだ。娘を見つめるユキを横目でちらと盗み見てから、視線を戻して尋ねた。いいんですか、と。


「あー。あれはいんだよ」


 ユキの顔が心なしか老けた気がして、イチは瞬きした。彼女の声は、我が子を想う穏やかな声音で、血が繋がっていなくとも、やはりユキは彼女の母親なのだ。

 何も言わず、イチは再び樹々の向こうに吸い寄せられるかの如く視線をやった。


 没する夕陽に照らされて朱色を纏う、風に波打つ黄金の草原に、彼女は一人で立っている。白と銀で設われているはずの制服は、一片たりとも元の色合いを見せず、真っ赤に染まっている。短剣を持った両手はだらりと下げられ、服から覗く玉肌にも、血痕がこびりついていた。


「イチ、次行くぞ」


 ユキが立ち去る足音を聞いてから。その哀愁を帯びた小さな背中から視線を引き剥がして、イチは師の後を追った。





 深く息を吐き出して、ジェノヴァは草原に座り込んだ。刃毀れの目立つ短剣をニ本揃えて傍に置き、後ろに両手をついて空を見上げる。

 気がつけば夕焼けで既に空が燃えていた。夕陽から離れるにつれて何層にも色が混じって、見惚れるような東雲の空を描いている。

 血を吸ってずっしりと重くなった戦闘服。走り回った疲労感。生まれてからずっと自身に絡みついていた呪縛から解き放たれ、初めて得た開放感と何とも言えぬむず痒さ。身体が煩雑な感情を一気に溜め込んで、今にもはち切れそうである。

 一度座り込めばもう身体を動かすことが怠くて、彼女は四肢を投げ出して寝転がった。脱力感と倦怠感に苛まれながら、雲がゆっくりと流れてゆく様をぼーっと眺める。今日の雲は、遅い。


「このスピードなら、俺が追い抜いちゃうぞ」

「ジェノヴァ」


 低く、艶やかな声。甘くも美しいその声は、聴き慣れていても尚、ジェノヴァの心を揺さぶった。

 導かれるように、目線を斜め上に向ければ、ひどい格好をしたレイが覗き込んでいる。ジェノヴァよりも血濡れは少ないが、それでも白い制服は土や血に汚れ、所々破れていた。

 小柄なジェノヴァは、負けが目に見えている肉弾戦だけは死ぬ気で避ける。そんな彼女とは違い、レイ達は取っ組み合いもするので、剣では受けないような傷も増える。


「レイ。腕は?」

「大丈夫だ。俺の身体は随分丈夫に出来てるらしい」

「本当に、ごめんなさい」

「謝る必要なんてねえよ」


 すぐさま腕を確認しようと、立ち上がりかけたジェノヴァを安心させるように微笑んで、レイはジェノヴァの隣に腰を下ろした。柔らかい金髪をくしゃくしゃと混ぜるように撫で、同じように目を細めて夕陽を眺める。西の空を華やげる色合いは、赤と青の幻想的な色彩を放っている。


「終わったな」


 ポツリと呟いたレイの言葉にも、少々疲れが滲んでいる。


「終わったね」


 それに呼応したジェノヴァの言葉は、自分でも分かるほど清々としていた。

 レイが背を倒し、草原に寝転がる。ジェノヴァもそれを真似て、ごろんと転がった。うーんと伸びをして、レイは気持ちよさそうに息を吸い込んだ。ジェノヴァはそれも、真似てみる。


「あ、見て」


 ジェノヴァが指差した先には、ゆったりと漂う真っ白な雲があった。


「シュークリームに見える」

「ライオンだろ、どう見ても」


 あーだこーだ、と二人はふざけたように言い合う。それからまた静寂が訪れて、ぼうっと呆けたように揃って空を見上げる。


「ミルガの寝癖に見える」

「……確かに」


 また、黙って。

 お互い向き合って。

 見つめ合う。

 堪えきれなくなったレイの口から、笑いが洩れた。くしゃりとした笑顔は、いつもよりも彼をいとけなく映した。


「こんなボロい格好して、俺等は何話してんだ」


 破顔したレイは、明るい笑い声をあげる。それを見て、ジェノヴァはにっこりとした。そして胸の内に、感情が滲み渡るのを感じた。心の奥が締め付けられるような、高鳴るような、でもほんわりと包み込まれるような感覚。

 ジェノヴァはもう、その気持ちの名前をっている。

 ジェノヴァはレイを見る。血に塗れ、汗をかいて、全身は泥と傷だらけ。そんな格好が、彼の魅力をより一層引き立てる。

 じっと見つめるジェノヴァの視線に気付いて、彼は首を傾げた。ジェノヴァは、端正な顔つきに嵌め込まれた、燃えるような紅玉に吸い込まれるように魅入る。


 彼の全てが愛しい──。


 トマトが苦手で、自分達の前でだけこっそり残すところ。

 いつも揶揄ってくるところ。


「どうした?」


 メイドのアリスにはいつも怒られてるところ。

 不服を洩らしつつも、兄には頭が上がらないところ。

 冷徹と言われても、一番心が優しいところ。


「ジェノヴァ?」


 笑った顔が子供っぽいところ。

 惚れるような生き様を見せてくれるところ。

 いつも絶対に助けてくれるところ。

 全部、ぜんぶ。


「大好き」


 彼が、ハッとした。


「レイ。私はレイが大好きだっ」


 じっと見つめられ、ジェノヴァは恥ずかしさを紛らわそうと、背中をまた倒して転がる。そして、レイにぴったりと身を寄せた。

 身体が熱い。頬が火照る。


「ジェノヴァ……不意打ちすぎないか?」


 目を見開き、焦ってるレイが可愛い。彼の爽やかな汗の匂いを嗅げば、心が安らいでいく。


「こっち来て」

「や、やだ。いっぱいいっぱいなんだ」

「いいから」


 腕を引っ張られ、晒していた瞳をゆっくりと彼に向けた。

 片手で口許を覆う彼を見上げて、ぴたりとジェノヴァは動きを止める。

 レイが、赤くなっている!


「え?うそ、レイ、照れてる?」

「ばか、そんな見るな」

「初めて見た!」


 興奮したジェノヴァは飛び起きて、ぐぐっと身を乗り出してレイに近寄れば、弾かれたように彼はそっぽを向いた。初の形勢逆転だとばかりに、ジェノヴァはにんまりとした悪戯顔で詰め寄る。


「なあなあ、照れてんのか?」

「うるせえ」


 感情に触れたい。もっと、色んな彼を見せて欲しい。知りたい。もっと、もっと知っていきたい。


「レイ、こっち見てよ」


 黙れ、と笑って、レイがジェノヴァの腹の回りに腕を回した。

 顔が近い。触れあった皮膚越しに、緊張と熱が伝わり、溶け合う。


「ジェノヴァのその言葉を、待ってた」


 一度ひとたび視線が絡み合えば、自然と彼等は口を噤む。レイの掌が彼女の雪肌の頬をそっと包み込めば、ニ人だけの時間が始まる合図だ。

 レイが素早く彼女の唇を奪う。

 甘い、口付け。時が止まる。

 ゆっくりと唇が離れ、掠めるほどの距離で彼は余韻を楽しんでいる。


「いつも余裕ないのは、俺の方だよ」


 掠れ気味の低い声が呟く。


「照れるし、緊張もしてる」

「そんな風には……」

「見えないって?そりゃ、俺だってひとりの男だ。好きな人の前では精一杯かっこつけたいんだよ」


 ジェノヴァの額を軽く指で弾いて、レイは恥ずかしそうに笑う。彼の感情が入り込んでくると同時に、早い鼓動を刻み始めたジェノヴァは、火照る顔で心胸の上の服を握り込んだ。

 嬉しくて、でも同じくらい恥ずかしくて、照れてしまって。気持ちがごちゃ混ぜだ。

 レイの指が、ジェノヴァの柔らかな頰を滑り、目尻を優しく撫でた。


「泣いたのか」


 涙の跡でもあったのだろうか。指が、目の縁から顎までを、ツツ、となぞる。くすぐったさに、思わずジェノヴァは揺蕩うシャボン玉のような朗笑を零した。それを眺めながらも、レイの手は彼女から離れない。頭を撫でたり、その柔らかな髪を乱させたかと思ったら、風に揺れる髪を耳にかけさせたり。掌から愛情が伝わってくる。


 その時、彼等の名を呼ぶ、仲間の声が聞こえた。

 ぱっと飛び起きようとしたジェノヴァの腕が、引っ張られた。後頭部に彼の手が回ったのは一瞬。息を飲んだ彼女を残して、彼は先に仲間のところに戻って行く。一瞬にして真っ赤に染まった頰を両手で抑えて、ジェノヴァは、「狡い」と文句を言った。

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