しがらみ
左右から来た2人の男の胸を踏み台に、身体を持ち上げ、少し奥の男の投げたナイフを叩き落とす。そのナイフは方向を変え、左から来た敵の心臓を抉った。
レイの身体が落ち始め、ここぞとばかりに攻撃しようとする。
彼の首にはレイの右手。剣がレイの服を裂くも、ゴキリと嫌な音を響かせて男の首はあらぬ方を向き、そのまま男は地に伏す。
着地したレイは軽く息を吐き、ナイフを投げた。
「ひっ」
逃げ果せようと、壁伝いに回り込んでいたサルファンの目と鼻の先に、壁に刺さった振動の余韻を残すナイフがあった。
レイの絶対零度を思わせる顔が、ぐるりと彼に向き、「動くなよ」と一言、釘を刺す。
サルファンの恐怖に震える顎からは、乾いて掠れた呼吸音だけが洩れる。
「動けばその首、即座に刎ね落とす」
青ざめた顔で、彼はしきりに首を縦に振る。それを見て、レイはまた、大理石の床を蹴った。
拳を何度か交え、蹴りで柱に敵を激突させる。彼の腕を敵の剣が焼こうとも、拳が身体に入ろうと、彼は全く揺らがない。それどころか、戦いの中で鋭さは増すばかり。荒々しい剣が閃き、敵が次々に膝をつく。
「貴様……。我等の宮殿で好き勝手暴れよって。生きて帰れると思うなよ」
ラガゼットが、言う。流石は国の軍総司令官。彼の殺気は、他の者のそれとは一線を画している。
「おいおい。先に攻撃してきたのは、そちらでしょう。うちはその反撃に出たまで。戦っていたら、こんな所まで来てしまいましたがね」
「食いつくよう、餌を撒いたのはどちらかな」
「おっしゃる意味が、解りかねる」
「見え透いた嘘を」
レイは一気にラガゼットとの間を詰め、回し蹴りを放った。避けられる。
両手を添えた剣を、脳天から突き刺す。これも避けられる。
反撃が来た。すぐさま躱し、肉弾戦にもつれ込む。
その間にもレイの左手は内ポケットをまさぐり、取り出したナイフで、背後から襲って来る敵を絶命させる。
漆黒の髪を翻し、身体を反転させてラガゼットの放つ蹴りを、片腕で受け止める。重い。
ラガゼットの足を突き返して、その反動を利用して跳び上がり、勢いをつけて、近くの壁を駆け上がる。身体を回転させながら斬り下ろす。
肩を斬った。腕を斬られた。
着地と同時にしゃがみ込み、乱撃を凌ぐ間に、足を引っ掛けて倒すと、ラガゼットの頭は丁度石膏の柱に激突する。
別の敵の剣が頭上から降って来るも、転がるようにして避け、両足で受け止めた。
襟ぐりを掴もうと伸ばされる右腕を払って、剣で弾き、弾みをつけて起き上がる。
背後から男の刃が迫っていたことに気付き、咄嗟に上半身を逸らせば、髪が少し切れ、黒がはらりと舞った。
その時、レイの名を呼ぶ声が響いた。
同時に何かが放られ、それを咄嗟の瞬発力で掴み取って、レイはその手触りを確認する。
思わず口許に笑いを溜めて、それをくるりと慣れた手つきで弄び、背後の男の腹に刺して、引き裂いた。
血を吐いて絶命した男の後ろに現れたのは、予想通りの人。
「ジェノヴァ」
レイ同様、血を被った酷い格好だ。
片手に短剣を持つ彼女に、借りていた、対の短剣を投げた。それを上手いことキャッチして、彼女は笑う。
「待った?」
「俺も今来たところだ」
ラガゼットが呻吟しながら、頭を押さえ、立ち上がる。灰白色の屑が彼の肩から、ぱらぱらと落ちた。
「お前は……」
震えた声が、落下する。
ジェノヴァがそちらを向いて、目を見開いた。驚きの表情はすぐにひび割れ、降魔の相へと変わる。怒りに強く噛んだ奥歯から、軋む音が洩れた。
「イレヴン」
「その名で、呼ぶな!」
凍てついた彼女の視線が、気色の悪い笑みを浮かべるサルファンを貫いた。
彼はよろよろと立ち上がり、まるで取り憑かれたような表で、ジェノヴァに手を伸ばす。虚な瞳。白濁した、盲いた目だ。
その目を向けられたジェノヴァは、一歩後ろに下がった。鳥肌が立つ。
──イレヴン。
お前の愛称だと言って、サルファンはジェノヴァを好んでそう呼んでいた。
屈辱、憎悪、恐怖。不安的な感情が、ジェノヴァの脳を激しく掻き乱す。
「イレヴンじゃないか!ああ、会いたかったよ!その綺麗な顔と髪と宝石のような瞳!変わっていない……いや、それどころか、ますます美しくなった」
「……俺の名は、ジェノヴァ・イーゼル。それ以外に、名は持っていない」
ジェノヴァの両手に握られた短剣が擦れ合い、高い金属音を奏でた。
レイも、刀身に滴る血を振り落とす。床に赤い斑紋が散って、一面が紅の花畑のようになる。
床を蹴ったのは、同時だった。
花火のように血が吹き上がる。四肢が砕け、爆竹のように音を立てて、二人に手向かった敵が次々と地に伏してゆく。
「私のところに戻って来たんだね!待ってたよ!」
「煩い!」
サルファンは狂っている。ラガゼットが必死に彼に何かを叫んでいるが、我を失ったサルファンの耳には、届いていない様子だった。
ジェノヴァは怒りのままに、剣を振りかざす。己を飲み込もうとする鬼胎の翳を、振り払おうとするが如く、暴れるように闘った。
幼いジェノヴァの心に植え付けられた恐怖心は、時間が経っても、そう容易く癒えない。尚且つ、姉の死体を目にして、自分の罪深さを思い知ったばかりである。
今のジェノヴァを苛む苦痛は、計り知れないものに膨れ上がっていた。
「君が一番のお気に入りだったよ。君がいた頃、色んなことを一緒にしたよね」
「黙れ」
気持ち悪くなる。彼の口をついて出る言葉全てが、内臓を揺さぶる。ジェノヴァは吐き気を抑えて、また敵の騎士を張り倒した。二度と見たくもなかった醜悪な輩が、腐った言葉を丁寧に並べている。
耳を塞ぎたい。
目を背けたい。
口を、削ぎ落としてやりたい。
「うん百人と奴隷を連れて来させたけど、イレヴン、君が一番綺麗だったんだ。また、君の肌に触れたいよ。こっちにおいで」
「煩いって言ってるだろ!」
ジェノヴァは怒鳴りながら、脚に力を込めて男の頭を蹴り上げた。
剣を握る腕が震えた。こんなことは初めてだった。どう足掻いても、過去の記憶が鮮明に蘇る。
「二人きりの時、楽しかったよね」
「黙れ」
「早く、こっちに来なさい。君は私のものだ」
「黙れっ!」
「どれだけ時が経っても、どこへ行っても、君は私の所有物ということに変わりはないんだよ」
「黙れえぇぇ!」
ジェノヴァが絶叫に似た大声で激怒したその時。
「ジェノヴァ!」
彼の鋭い声が響き、赤い血が目の前を舞った。
「……レイっ!」
焦点を失っていたブルーの瞳が、一瞬にして色を取り戻す。舞い散る赤が、ゆっくりと視界を横切った。
「ど、どうしよう、おれ……」
レイが自分で抑える右腕からは、じっとりと血が染み出してきた。
それを見て、レイに抱き込まれた状態のまま、ジェノヴァの顔からはみるみる血の気が引いてゆく。彼女は目に見えて狼狽えた。
相手も手練れ。ジェノヴァが逆上することでできた、一瞬隙を突いてきたのだ。
「ごめん、レイ。ごめん……」
自分の服を引き裂いて、ジェノヴァは必死にレイの右腕に巻きつけ、止血をしようと試みる。血は止まらない。
それどころか、どんどん流れていくように思えて、ジェノヴァの手元はどうしようもなく震えた。気が動転する。冷静を欠いたジェノヴァの心臓は、不安に押し潰されそうになって、早い鼓動を刻む。空気すら、うまく吸えない。涙が勝手に、止まることなく流れていた。
「……ジェノヴァ」
「あぁ……。ごめんなさい」
「ジェノヴァ」
「ごめん、どうしよう、利き手なのに」
「ジェノヴァ! 俺の目を見ろ」




