呪われた一族
ナイフを握るレイの右手は戦闘意志を失って、だらりと下げられた。彼の目の前に現れたのは、少女だった。青白い身体を荒い網目の麻の服に身を包み、其処に立っていた。稲穂を思わせる豊かな金髪は風に靡いてさらさらと煌めき、大きな瞳は夜空を写し取ったかようなブルーの瞳は、宝石のように見惚れる程美しいのに、何処となく影ある暗さを抱えているようであった。今でも、鮮明な記憶だ。
「ねえ、その子、ジェノヴァに似てない?」
彼の声がレイの思考を引き戻した。
「俺も、そう思う」
「レイ、ジェノヴァにその子を重ねていてるんじゃないよね?」
脅すように放つ彼の言葉には険が含まれていて、ジェノヴァを大切に思っている事が伝わってくる。違えよ、とレイは短く、しかし、強く言った。
少女との出会いは、俺にとって大切なものだったと明言できる。でも、ジェノヴァに彼女を重ねたから好きになった訳ではない。確かに初めから、似ているな、とは思っていた。年齢が同じだとも思ったし、女だと知ってちょっと期待してしまったことも事実だ。でも、その少女が大人になって目の前に現れたとしても、俺は彼女を好きにはならない。ジェノヴァが好きだから。今の彼女を愛しているから。
「ごめん、愚問だったね」
カルキは笑って、続きを促す。
少女はレイを見て心底驚いている様子だった。武器を持っていないようだったので、ナイフはいつでも取り出せる位置にしまい込んだ。彼女の身体は泥だらけで、しかも無数に傷の走った足は靴下すら履いていない。綺麗な青い瞳の奥には、空洞が見えた気がした。吸い込まれそうになるほど深く、果てしない。あれには覚えがある。レイの心に爪痕を残す、かつて自分の瞳のなかに巣食っていたもの。今思えば懐かしい。
「俺はレイ。お前は?」
そう尋ねれば、彼女はびくりと肩を揺らし、暫くして口を開いた。控えめで小さく、随分と怯えた声だった。
「おいで」
最初は恐る恐るだった彼女も、敵意のない俺の様子に安堵したのか次第に近付いて来て、最後には俺の隣に座った。彼女の頭を撫でてやれば、犬っころのように嬉しがって、いた。
「野良犬を手懐けた感覚に近しい。あの快感にも似た征服感というか満足感というか……」
「感動の出会いが、一気にチープに」
「まあまあ、聞けって」
暫く2人で会話を交わし、森で遊んだ。そして、空を東雲に彩っていた太陽がふつり、と沈んだ時、彼女は突然無口になった。
「また会って」
彼女の願いを告げる口調は控えめで、縋るような声音。レイは彼女を気に入っていた。もう予想される周囲の小言など忘れて、二つ返事で了承した。
「俺が必死にお前を探してる間に、お前そんな悠々と時間を過ごしてたのか」
カルキのじと目を受けて、すまんすまん、とレイは目尻を下げて、笑いながら謝る。それで?とカルキは投げやりに促す。
「それから……」
そう。それから、彼女とは時折会う仲になった。待ち合わせ場所は、禁断の森の麓。頻繁に会う都合は付けられなかったが、仕事のスケジュールの合間を縫い、護衛を言いくるめて、せっせと脚を運んだ。彼女はウルバヌス側まで降りると言って、毎回ウルバヌス国内で会っていた。杉の木の群から数えて5本目の、楠木の下だ。
「ああ。あの頃のお前の、空前の散歩ブームの原因はそれか」
納得、とカルキは手綱から手を離して、ポンと手を打つ。本当、彼は余計なところまで良く覚えている。
「何。お前気付いてたのかよ」
「当たり前でしょ」
「俺に理由、聞いてこなかったよな」
不思議そうにレイが尋ねると、カルキはお得意の含み笑いを浮かべた。
「友の、女との逢瀬を邪魔するほど、野暮な男ではないからね」
「はあ?」
「そういや、リーカスも言ってたな。分かり易すぎるんだよって」
ふふふ、と満足気な彼は、完全にレイを馬鹿にしている。反駁する彼の表情はカルキにとって、もう揶揄いネタでしか無い。
「くそ、あいつ……」
歯軋りして、不貞腐れる彼は子供っぽい。ほら続き、とカルキが言えばレイはまた口を開く。
「話題は絶えなかったな」
彼女は自然に生き、自然に生かされる、山の民だった。森や山やそこに住む動物達や草花について、様々なことを話してくれた。獣と共に自然の摂理に倣って生きる野生的な生活は、興味深いものであった。代わりにと言って、レイは国や街のことと、少しばかり城の皆のことを話した。お互いの住む場所や置かれていた環境は全く違くて、それについて聞くことは新鮮で。なにより、彼女との会話を心から楽しむ自分がいた。
そして、出会ったあの日、山火事で両親と姉を一度に亡くしていたことも話してくれた。幼いながら必死にどう声を掛けるべきか、悩んだ事を覚えている。結果から言えば、彼の励ましは少々不器用だったと言えよう。幼いながら普段振り撒いていた、愛想も笑顔も、口をついて出る調子の良い台詞も途端喉につっかえたように何も出なかった。幼子をあやすように彼女を抱きしめ、時折静かに言葉をかけた。彼女が、立ち上がれるように。そしてまた、何度も遊び、昼寝をし、本を読み、食事をして、だらだらと時を過ごした。いつも刻はあっという間に過ぎ去って、一時も時間が惜しいほどだった。
然し乍ら、そんなある日。待ち合わせの場所にいつまで経っても彼女は来なかった。次の時も。その次の時も。多忙になりつつあったスケジュールの合間を縫って、彼女が居ないか森の中まで見に行ってみたりもした。
そうして、半年ほど経った頃だろうか。楠木は俺の秘密の休憩場所として定着していた。王宮図書館から借りてきた本を持ってそこに向かったレイは、楠木を見上げるようにして佇む彼女の姿を見つけた。手の内から、ぼろぼろと本が零れ落ちた。その音で振り返った彼女の頬には涙の跡と悲しげな翳りが残っていた。
雲一つ見えない蒼穹が青々と広がり、強い陽射しの降り注ぐ、真夏のことであった。楠木の青葉が風にそよぎ、さざ波を立てていて。陽の光は煌めく紗と成り、織り混ざって、淡いベールが優しく彼女を包み込んでいた。眦に涙を溜めて、微笑もうと口の端を無理矢理持ち上げる強がりな彼女は、あまりにも儚くて。その存在を打ち消そうとするかの如く降り注ぐ光を、これほど嫌悪したことは無い。レイは、野に落ちた本を拾うことなく、ゆっくりと彼女に近づいた。豊かな金色の髪は、会わない間に少し伸びていた。少し背も伸び、顔付きも大人びたその容姿は、ますます浮世離れした美貌が際立っていた。
「ごめんね」
腕を伸ばせば、触れるか触れられないか、という距離。俺の歩みを止めるように、彼女は囁いた。
「ごめん」
彼女は何度も繰り返す。若葉が似合う声だ。状況に反して、レイは頭の片隅でそんなことを考えた。透明感のある爽やかな声。ずっと、側で聴いていたいと思うような。そんな。
「なにが、ごめん、なの」
問うのが怖かった。絞り出して言った言葉は喉を引っ掻き、ひりつかせた。
「行かなきゃいけないの」
「何処へ」
そう尋ねても、彼女はただ口を噤んで首を横に振るだけ。俺と彼女の間の距離を意識させるかのように、風が通り抜けて行った。
「ありがとう」
彼女はそう言う。その先の言葉を発しようとする、柔らかな唇が、開くのを見るのが怖かった。込められた感情に、向き合うのが怖かった。目を逸らしたくなるのに、真正面から受け止めようと意固地になる自分の性格が、この時ばかりは恨めしかった。
「レイの言葉に、何度も救われた」
彼女の柔な白肌を、雫が伝う。俺は、それをただ呆然と眺めていた。
「折れそうだった心を優しく包み込んでくれた。新しい世界と明るい未来を見せてくれた。人生で一番幸せな時間だった……」




