本当の君
制服のボタンに手をかけたジェノヴァの手は青白く、震えていた。
「傷は深いんだ、無理するな」
「ほら、ライアが人が足りなくて大変って嘆いてたぞ。そっちにまわってやれよ」
「んなこと出来るか。あいつらに任せときゃいんだよ」
ああ、計算外。忘れていたが、レイは時々、こうやって仕事を丸投げするような雑な人使いをするのだった。レイがジェノヴァの手を押しやって、シャツのボタンに再び手をかけた。抵抗を試みるも、意思に反して力は抜けていき、頭は殴られた時のようにぐわんぐわんと揺れる。
ジェノヴァの手がシャツの上から、力を無くして滑り落ちた。それを見て、レイが息を飲むのが聞こえた。彼が急いで、ボタンを外す。
駄目だ、嫌だ。彼には、彼にだけは、明かしたくなかったのに。突然。彼の手が、止まる。
「……え」
力を込めて重い瞼を開ければ、目を見開き唖然とするレイ。白い布を巻いてなんとか誤魔化してきたが、シャツ越しでないならばもう隠すことはできないだろう。
「お前……」
そうか。バレたのか。ジェノヴァは繋ぎ止めていた意識を手放した。
レイは椅子に座って、保健室のベッドで眠る彼、否、彼女を眺めていた。陶器のような肌に、長い睫毛を伏せ、いつものブルーの瞳は閉じられている。この数年間毎日共に過ごしてきたが、何故気付かなかったのだろうか。いや、よぎるような懐疑の気持ちを無意識に否定していたのだろうか。自分の髪をくしゃり、とさせる。触れた柔な頰、まわした細い肩、引き寄せた時の甘い香り。ちらりと不思議に感じてきたことが、今ではことごとく辻褄が合っていく。それらを思い出して、レイは柄にもなく顔を赤らめた。
ジェノヴァ、ぜってぇ今起きるなよ。
レイも今年で24。頰を赤くしたところなど、死んでも見られたくない。こんなに、女相手に取り乱すことは初めてで。その事実にレイは動揺する。片手で口元を隠し、彼女から視線を外した。
ごそ、とシーツが擦れる音がした。ぴくり、と1度、瞼が動いたと思ったら、ゆっくりと深海の瞳が姿を見せる。彷徨っていた視線が俺を捉えると、ジェノヴァは勢いよく飛び起き、傷の痛みに悲鳴をあげた。
「あほ、まだ寝てろ」
ベッドに横たわるよう、彼を押し付けようと立ち上がれば。
「あわわっ」
「っ危ねえ」
俺から距離を取ろうとしたジェノヴァがベッドの向こう側に落ちそうになる。それを身体を半分抱きかかえるようにして、阻止した。やはり、軽い。深く考えてこなかったが、ジェノヴァの身長を考えても男の騎士にしては、細身すぎる。ジェノヴァは一気に顔を上気させると、ボフッ、と音を立ててタオルケットを頭から被り、ベッドの上にこんもりとした山を作った。
「ジェノヴァ」
声をかけると、その山がびくりと大きく揺れる。その姿に思わず、微笑を浮かべてしまう。
「レイ、知っちゃったのか」
震える声が、言葉を絞り出すように言った。それは、2人以外誰もいない、だだっ広い保健室の中に、ぽつんと落ちる。
「俺は、もう、レイの騎士じゃないのか」
まるで、駄々を捏ねる子供のようだ。悲しさを含みつつも、拗ねた口調。
「騎士団も、俺、辞めなきゃ……」
彼女は自分に言い聞かせるように呟いたかと思えば、脱兎の如くベッドからするりと抜けだした。
「お、おいっ!」
腕を掴もうと、伸ばしたレイの手は、空を切る。いきなり、あんなに激しく動いては、傷口が開いてしまう。裸足のまま、彼女は保健室のドアに猛突進。長距離はいいが、さすがに短距離はジェノヴァの足にレイも勝てるか分からない。しかし、ここで逃すものか、とレイも椅子を蹴倒し、ダッシュ。扉の直前で、レイは彼女を捕らえた。肩の傷に障らないよう、腕の中に閉じ込める。離せっ、ともがく彼女お構いなしに、更にきつく閉じ込めた。
「離せ!」
「誰が、そんなこと許した」
レイが被せるように放った言葉に、暴れていたジェノヴァの動きが止まる。そして、は?え?え?と言葉を零す。
「な、何言ってんだ」
ジェノヴァが顔だけこちらに振り向いた。海と空の色を混ぜたような、美しい輝きを放つブルーが、揺れている。
「だから、そんなことは、俺が許さねえ」
再び、ゆっくりした口調で言い放ってやれば、彼女は半ばパニック状態。
「レイ!軍則があるだろっ⁉︎」
ああ、と言葉少なく答える。
トレジャーノンの軍と呼ばれる、この国の騎士団には、軍則がある。所属するためには、死ぬまで守らなくてはならない鉄の掟。その12個の項のうち、4項目。
【 第四条 】
軍部、またはそれに準ずる機関は、17歳以上の男子で構成されなければならない。
しかし、レイには耐えられなかった。撃滅の七刃が誰一人として欠ける事がどうしても許せなかった。彼はこの1ヶ月と少しの間に、再認識してしまったからだ。
彼女をなくす恐怖が、どんなに彼の心を抉ったか。
彼女がいない生活が、どんなに彼を不安にさせるか。気付いてしまった。……だから。どんな手を使っても、俺の側から離れさせやしない。
俺は、と呟いた声は、思ったよりも掠れた。
「もう、お前の毒にやられてたんだ」
自嘲気味に落とされたそれは、ん?と彼女の眉間に皺を寄せさせる。ジェノヴァはゆっくりと彼から離れ、レイを正面に捉えた。それに対して彼は顔を晒して、黒の前髪をまたくしゃりとさせる。
レイは言葉にならない思いを持て余して、意味もなく焦っていた。いつも落ち着いているはずの鼓動が、速いテンポを刻む。しかし、開いた彼女の唇に指を当てて、言葉を紡がせない。聞いてくれよ、とルビーの瞳が物語った。その、珍しく乞うような眼差しに、ジェノヴァはゆっくりと口を閉じる。
「行かないで欲しい」
少しの間をあけて、彼はぽつり、とそれだけ言った。逸らされていた目がやっと、目の前のジェノヴァを捉えた。ブルーの大きな瞳が、いつもと違うレイの表情を映し出していた。
「行くな。……お前が離れることは、この俺が許さない」
彼の言葉は堰を切ったように流れ出す。
「やめるなんて、二度と言うな」
彼の、ジェノヴァを掴む力が強くなる。
「今更、それが何だってんだ」
紅い瞳が意地悪く笑う。
「軍則?んなの、関係ない」
形のいい唇が、確かに、紡ぐ。
「俺にはお前が必要なんだよ、ジェノヴァ」




