彼の世界
促されるようにシュヴァリエの花を見た。一枚一枚の花びらは薄く、綺麗な曲線を描いている。それが何枚も重なり、表現できない柔らかさを醸し出していた。中央には丸く真っ赤な実が2つ。これがまた可愛らしい。
がくは瑞々《みずみず》しい黄緑色で、触れてみると想像以上に柔らかく、優しく触れなければ容易に折れてしまいそうだった。
「最初が肝心でな。蕾をつけるまで手間をかけてやらんと全く育たんのよ。何しろ、癖が強い花だからなぁ」
「でも、それが、こんな柔らかい花をつける訳なのですね」
そっと花びらに触れる。思った通り、ふわふわとしている。
「ほほぅ、よくわかってるのう。……大切に育てられれば育てられるほど、蕾は花を守るのだよ。まるで、騎士のようにね」
それから暫く、この花の美しさに呑まれたように、夢中でシャッターを切った。この誘惑には写真家は耐えられない。
「ところで、青年よ。君は何故ここに来たのかな」
覗き込んでいたカメラから顔を離し、え?と声をあげた。花園だろうか、その奥の方だろうか、はたまた何処か違う遠くだろうか、に目をやって、おじいさんは続ける。
「ここは、中心街からは少し離れているだろう?この国に来て数日の君が辿り着いたのは何故じゃろうか。道に迷ったのかな」
豊かに蓄えた顎髭を触りつつそう零す彼に、視線を合わせた。
「あの、ジェノヴァさんって人知ってます?俺をここに導いてくれた人なんですけど……」
花を撫でようと伸ばしかけていたおじいさんの手が、ふと、止まる。
「ほお、ジェノヴァが、のぅ」
彼の表情に、考えるような、優し気な、想うような、柔らかさが増した。
「お知り合いなんですか?俺、さっき助けてもらって、お礼したいんですけど……」
「あいつはお前になんて」
彼はまた慈しむように花を撫でながら、そう問う。
「いや、こっちに行け、とだけ」
ほぉ……、と感嘆にも似た声を零し、おじいさんはゆっくりと腰をあげた。
「あいつは風。誰も捕らえられやしないよ。……ああ、いや、1人いるかもしれんが」
「どういう……」
疑問に首を傾げる彼の質問には答えない。
「あいつは期待しているんじゃよ、君にね」
「期待……」
その言葉がやけに重く感じたのは何故だろうか。反芻すれば、舌に残る感覚がする。
「今は頑張ることが一番じゃ。いつでもここに来るがよい。その時は茶でも出そう」
そう目尻を下げて言って、ゆっくりとした歩みで去って行った。ここの人は答えずじまいが多いのか?と首を傾げる。その丸まり気味の小さな背中を見送って、期待か、と独り言ちた。ジェノヴァ様本人の様子からは窺い知ることはできなかった気もするが、兎に角、俺は期待されているらしい。
「期待って、カメラにか?」
もう、本当によくわからない。よくわからないけど……。
手の中に重みを落とす、古めかしい自分のカメラを見た。それは、彼が小さな頃から使っていた、祖父からのプレゼントだ。所々に小さな傷があるが、まだまだ現役で働いてくれる有能なカメラだ。思い出もたくさん、詰まっている。
「とりあえず、頑張ってみよう」
そう言った、清々しい表情の彼の背中を押すように、秋の風が吹いた。ジェノヴァと再会を果たす前の、青年ダーグルの話である。
チリンチリン、と店に入ったことを知らせるベルが鳴る。
「あ!青のにーちゃん!」
奥から顔を覗かせた男の子が、嬉しそうに満面の笑みを浮かべると、駆け出してくる。飛びついて来た彼を受け止めると、ジェノヴァは破顔した。
「ごめん、ター坊、待ったか?」
服に埋めていた顔をあげたター坊は、むふ、と可愛い笑い声をあげる。
「いいよ、許してあげるっ」
「ふふ、許された」
ター坊の、抱き着きたくなるような可愛さにクスリと笑みをこぼすと、彼が照れたようにもじもじとし始めた。そんな彼に、ジェノヴァは首を傾げる。
「青のにーちゃん、やっぱ、きれい!」
「え」
ター坊の頭を撫でていたジェノヴァの手が、思わず止まる。ドキ、と鳴った心臓を落ち着かせるジェノヴァの事などつゆ知らず、ター坊は続けた。
「青のにーちゃんって、キラキラしてるの!にーちゃんの仲間もきれいだけど、なんか、別のキラキラ!」
目を輝かせてそう言う彼に、その目を丸くしながら、ジェノヴァは吃りつつもなんとか、ありがと、と言う。彼に気付かれないよう、そっと、冷や汗を拭った。子供、恐るべし。無邪気に急所をついてくるところが怖い。
「そんでね、いいの見つけたのっ」
彼が後ろ手に隠していたものをジェノヴァの目の前に控えめに差し出した。まだふくふくとした柔らかそうな小さな手が、そっと開かれる。
「これ……」
そこにあったのは、クリアなブルーのクリスタルがはめ込まれたピアス。小ぶりで、控えめで、確かにとても綺麗だ。光の具合によって変化する、エメラルドグリーンに近いブルーのクリスタルが銀で縁取られている。恐らく、値の張る一点ものだ。
「にーちゃんに似合うと思ったんだっ!あげるよ」
「いや、そんな。プレゼント貰うようなこと、してないよ」
にこにことえくぼを浮かべてピアスを渡してくるター坊に対し、困ったように笑うジェノヴァに、後ろから穏やかな声がかかった。
「どうぞ、もらってやってください」
「カイド夫人」
この洋服屋えちごを夫と共に仕切る、聡明な人だ。ター坊の母でもある。
「お久しぶりです、夫人」
立ち上がって彼女の方に向き直り、胸に手を当て腰を折って挨拶をすれば、彼女は照れたように笑いを零した。
「やだ、夫人なんて、恥ずかしいわぁ……。そうそう、この子、これ見つけた時、絶対ジェノヴァ様に似合うって言ってはしゃいじゃって」
そうなんですか、と返しながら、ジェノヴァは傍に立つター坊の頭を撫でる。柔らかい髪の感覚が、手に優しい。へへへ……、とくすぐったそうな笑い声を零す彼を見てから、彼女は視線をジェノヴァへと合わせた。
「お金は要りません。いつもこの子の相手していただいてしまってますし」
「いや、それは……」
遠慮気味に眉を寄せるジェノヴァに、今度はター坊が向き合って言う。
「もらってよ、青のにーちゃん」
可愛い笑顔は、彼によく似合う。そんな笑顔に絆されて、ジェノヴァはター坊の背に合わせてしゃがんだ。
「にーちゃんがピアスの穴あけてないの知ってるけど、持ってるだけでいいから!」
彼の好意が真剣な表情から伝わってくる。隠しきれない嬉しさが、ジェノヴァから伝播して彼に伝わると良いのに。そんな思いを秘めて、ジェノヴァは頷いた。
「う、ん。わかった、ありがとう」
手のひらを広げると、そこにター坊がそっとピアスを置いてくれる。
「……ありがとう」
小指の爪の半分もない程の小さいピアス。それをそっと包み込んだ。濁りも霞もなく、純粋に透き通るそれは、俺にないものを補うように見える。ゆっくりと瞳を閉じた。こういった優しい心からの気持ちが添う物は、現実と俺を確かに繋ぐ糸。俺がこの世界にいる証のように見えて。嬉しかったんだ。




