彼の世界
「……は、離しなさいよっ」
「おっと」
なんとかして、正気に戻った女が彼の拘束を解く。その拍子に、被っていたフードがはらりと取れた。瞬間、ここ1番の悲鳴があがった。男も叫んでいるのは何故だろうか。フードの下から現れたのは鮮やかな金髪、白い頬、ブルーの瞳。誰もが見惚れるような、美青年だ。絵画から抜け出してきたかのような神秘さと、彼自身が醸し出す紳士的な雰囲気。只者でないことだけは、分かる。女が頬を染めながら口をパクパクさせる。
「ジェノヴァ様っ!」
ジェノヴァ、様……?
彼女の叫んだ名前をおうむ返しして、首を傾げた。
「と、とんだご無礼を」
なんだ、偉いのか、こいつ。未だ尻餅をついた随分格好の悪い姿勢で、彼を見上げた。
「いや、構わない。もう、ずっとにっこりしていてくれよ。折角可愛いんだから」
彼は特に表情を変えずにそう応え、コートのフードを軽く整えた。
「ジェノヴァ様じゃないかい!」
「素敵すぎる……」
「みんなで次はいつ来るのかと楽しみにしていたのですよ」
彼の人気ぶりを象徴するかのように、人が押し寄せ、口々に彼に話しかける。
「レイやミルガ達はいないぞ」
ちょっと呆れた様子さえも窺わせるが、そんな彼の様子を気に留める人は誰もいない。というよりも、そんな表情を見て、なんだか嬉しそうだ。
「ジェノヴァ様だけでとても嬉しいです」
「会えて元気が出ますっ」
あまりの人気ぶりに圧倒されるしかない。彼はあっという間にたくさんの人に囲まれ、最早あまり姿も見えない。
「今日は私用があっただけだ。また今度来る」
ひらりと手をあげて返事をしながら、人垣を割って出てきた。と言うよりも、彼の為の道が自然と開けた、と言った方が正確かもしれない。
「その時はちゃんと知らせてくださいね」
「わかった、わかった」
彼は困ったように言いながらも、固い無表情を少しだけ崩して、優しく返している。
「とびきりのご馳走準備しとくんで!」
「楽しみにしてる」
「おぅ、任せろ!」
「ちょ、おい。髪をぐしゃぐしゃすんじゃねえ」
察するに高官だろうに、街の老若男女、様々な人々と仲が良く、正直驚きを隠せない。こんなお偉いさんを、他の街で目にしたことがあったろうか。少し口下手を思わせるが、人々はそんな彼に次々と話しかけている。普段から交流がある証拠だ。
「俺、そろそろ行くな。こいつはこっちで処分しとく」
「わかりました、お願いします」
「次も待ってますから!」
そんな人々の声を背にくるりと振り返り、顎をしゃくって、立て、と一言。通りを下っていく彼の後を、周囲の視線に刺されるようにして、追うのであった。
「……あ、あの、ジェノヴァ様?」
ついて来い、と言われ、スタスタ歩く少し背の低い彼の背を小走りで追う。彼は始終無言だ。先程の優しい彼は何処へやら。男相手にはプレイボーイぶりを発揮してくれないのだろうか、人が変わったかのように話しかけるのも躊躇わせるような、怖いオーラを出している。助けてもらったのはありがたいが、正直、この状況に戸惑いを隠せない。
「あの、さっきはありがとうございます」
「すいません、どこいくんですか?」
「ジェノヴァ様と言うのですね。あの、俺この街には来たばっかりで」
めげずに彼に話しかけていたが。
「ちょっと、黙ってくれない?」
急に立ち止まったかと思えば、無表情で冷気さえ感じる瞳でじとりと見られた。美形の無表情はちょっとばかし迫力があり、すぐに口を噤んだ。
「……すいません」
最も、その無表情が彼の儚さを増させ、美しさを際立たせて、一層彼を魅惑的に見せているのだが。それからは、男2人で黙ったまま、道を進んだ。側から見れば少々おかしな光景だ。暫くついていくと、彼は突然ピタリと足を止めて振り返るが、やはり彼の顔は無表情。いや、少し眉間に皺が寄って、不機嫌な様にも見える。
「あそこの角を曲がって、公園を抜けろ」
「え?」
彼は道の向こうを指差してから、それだけ言って立ち去ろうとする。それを、待ったとばかりに、道を塞いで阻止した。彼は、何だ、とばかりに眉間の皺を深めるが、問い返したいのはこっちの方だ。説明不足にも程がある。
「俺には外せない用事があるんだ」
「えっとぉ……」
「有無を言うな。早く行けってば」
「は、はい」
向こうを指差してそう言うと、彼は結局何も説明をすることなくスタスタと元来た道を帰って行ってしまった。
「な、なんなんだ」
道の向こうに見えなくなっていく彼の背中を見送って、呟く。この先に何があるのだろう、と道の向こうを見遣った。本当はこの先には、何か悪いことをした人が連れて行かれる場所があるんじゃないか、などという考えが頭を駆け巡る。
「行くか!」
もしそういうところだったとしても、さっきのままだったら、確実に警察行きだった。楽観的な性格、ポジティブシンキングが取り柄である。言われた通りの道を進むと、大きな自然公園に入った。木々が広がり、地面に模様を描いている。花壇に花も咲いている。噴水もあった。なんだか俺の好きな感じだ、と思わずカメラに手をかけ、気付けば夢中で写真をカメラに収めていた。あの葉を狙おうかとカメラを構えたとき、フレームの端に何か紫色のものが写った。
「なんだろう」
手を止めて、引き寄せられるように、向かう。その片鱗が見えた時、思わず丘を駈け出した。落ち葉に一瞬足を取られるも、何とか駆けて体勢を持ち直し、林を抜けた。
「わぁ……」
視界が開けた途端、あたりは紫で埋め尽くされていた。息が、もれる。あの花だ。俺が撮ってしまった、あの花。今、分かった。あの人は、全て分かっていたのか。俺があの店の中でなく、花を撮ったこと。このカメラでは直ぐに印刷は出来ず、証拠を示せないこと。わかった上で、俺が犯人じゃないと言わなかった。それも、あの女達の為だ。彼女達が間違っていたとなれば、大勢の前で恥をかいてしまう。そして、俺をここに連れてきた。この花が俺が所構わず、衝動に駆られて《《撮ってしまった花》》だからだ。
「なんだよ」
超かっこいいじゃないか。
「客人かな?」
思考を巡らせていたところに、少々しわがれているが優しい声がかかった。振り返ると、杖をついてニコニコと柔和な笑みを浮かべるおじいさんがいた。背中は曲がってしまっているが、目鼻立ちはくっきりとし、格好もきちんとしており、きっと若い頃は爽やかな男だったに違いない。皺のいっぱい入った顔をくしゃくしゃにすようにして、人の良い笑顔を浮かべて、こちらを見ている。
「おや、見ない顔じゃね」
「先日この街に来たばかりで」
ぺこり、とおじいさんにお辞儀をした。
「おぬしも、これが気に入ったのかい」
笑顔を崩さないまま、そのしわがれた指で薄紫の花を指した。視線は遠くまで広がる花壇全体に送っている。
「ええ。初めて見たんですけど、とても美しい光景ですね」
それを聞いて、おじいさんはとても嬉しそうに白い歯を見せた。
「これはシュヴァリエの花というんじゃよ」
「へぇー。もしかして、これ全部おじいさんが」
首肯するおじいさんを見て、更に感嘆の声をあげる。この量は凄い。
「こいつを育てるのは大変なんじゃよ」




