彼の世界
街はいい。活気のある街は。様々な空気が混じりあって、そこにある。混在しているけど、嫌じゃない。誰もが、それぞれの生活を営んでいて。人は人との岐路が運命の様に交わったり、唐突に別れたり。この街で生きているからこそ味わえる、面白味である。
「青のにーちゃん」
不意に引っ張られたことで、ジェノヴァは一気に思考から浮上した。振り返ると、目のぱっちりした男の子が俺の服の端を握りしめている。
「ター坊か。どうした」
しゃがんで彼に目を合わせると、嬉しそうにまるまるとした輪郭を更に和らげて破顔する。そんな姿を見ると、こちらまで幸せな気分になる。ジェノヴァは優しい声音で、そう、彼に話しかけた。
「青のにーちゃん、見回り?」
「いや、今日は自分の用事だ」
ター坊は、この街の洋服屋、えちご、の子だ。元気いっぱい、育ち盛りの男の子。もうすぐ10歳になる。
「あのな、にーちゃんに見せたいのがあるの」
「ん、なんだ?」
テトテトと歩くター坊がかわいい。意外にもジェノヴァは子供好きだ。レイにも驚かれたことを覚えている。そういうレイも大層な子供好きで、よく子供に囲まれながら街の視察をしている。彼は自然と子供に懐かれるようだ。
「こっち、こっち」
俺のコートを引っ張りつつ俺を振り返る。今日は時間に余裕があるので、付き合うことにした。何度も振り返っては見上げてくるので、子犬か、とジェノヴァは苦笑した。方向からして、きっと自分の家に連れて行くつもりなのだろう。必死に俺を引っ張る姿がたまらない。ター坊の家へと向かう途中で、何やら向こうの通りが騒がしくなっていた。首を伸ばしてみるも、人がごった返していてよく分からない。
「青のにーちゃん、どうしたの?」
急に立ち止まった俺を訝しげに覗き込むター坊と同じ視線にまでしゃがむ。
「ター坊、お兄ちゃんな、騎士なんだ」
「知ってるよ」
キョトンとした彼の表情ですら、可愛い。
「だから、街のみんなのこと助けなきゃいけないんだ」
「……うん」
少しの不満顔を押し込めて、ター坊は頷く。
「あっちに寄って、ちょっとだけ、お仕事してくるね。これが済んだら直ぐター坊のとこ行くから、いいか?」
「絶対?」
「うん、絶対」
彼の目を見て、力強く頷く。
「わかった……」
「良い子だ。ありがとう」
渋々了承してくれた彼の小さな頭を撫でた。ふわふわと柔らかい髪が、くしゃ、となった。ミルガの寝癖のようだ。
「えらいぞ。お店に連れてってくれようとしてたんだよな?ター坊は先帰ってて」
「うん」
「よし」
駆け出してから、振り返り、早く来てねーっと大声で叫んでから再び走り出す、その小さな背を見送ってから、立ち上がる。
「さて、と」
片付けますか、とジェノヴァはその両手をぱんぱんと軽く払うように叩いた。道の真ん中には大きな人だかりができていた。着ていたコートのフードを下ろし、その端の方にそっと近づく。できれば、俺だとバレずに終わった方が楽だ。新たに人垣ができても面倒なのである。中央には、女達と1人の若い青年の姿。全く、仕事を増やせやがって、と内心舌打ちしながら様子を静観する。地面に尻餅をついた男を取り囲む、化粧を施し、ひらひらと華やかなワンピースを着た女達は、相当お怒りのようだ。男は周りからも非難の眼差しを向けられて、肩を縮こまらせ、随分と可哀想なことになっている。ジェノヴァは人垣の端にいた男に近寄り、そっと話しかけた。
「すまないが、これはなんの騒ぎだ」
ん?と振り返った髭面の男は、ジェノヴァの格好をちらりと見て口を開く。
「旅人かい?そこにマドレーヌっていう踊りを生業にしてる店があんだけどよ、そこであの男が窓から盗撮しようとしたらしいぜ」
男は顎を撫でつつ、心配をする目で通りを見やった。
「なるほどね」
「あいつ可哀想に……この辺りであの姉さん達に恨まれちゃまずいのになぁ」
此処を通りづらくなるしな、と彼はうんうん頷く。男から視線を離して、ジェノヴァは騒ぎの中心に目を向けた。尚も諍いは続いており、益々ヒートアップしている模様。
「そうか、ありがとう」
「え、旦那?どこへ行くんです?」
素っ頓狂な声をあげ、男は目を丸くする。彼の呼び止めようとした男の手は、空を掠めた。人垣を割って進もうとするジェノヴァを心配する声を背中に聞きながら、彼は中央に近づいて行った。
「あんた、盗撮なんて許されると思ってるの?」
「そうよ!」
「いや、だから、俺は何も……」
「白々しいこと言わないで!」
「カメラ貸しなさいっ」
俺は放浪の写真家だ。とは言っても、まだ駆け出しの新人だが。この街に来て、2日目。訪れて腰を据える家も見つけた、と思った矢先、こんな事件を起こしてしまった。しかも、全く収拾がつかないどころか悪い方向へと転がって行く状況に困り果てていた。今までいた国とは違う気候のこの街には珍しい花が至る所に咲いており、初めて見る花を見つけたので、思わず写真を撮ってしまったのだ。しかし、場所が悪かった。花の咲いていたのは、マドレーヌという踊り子の店の窓の隣。それに気づいたのは、店の中から悲鳴があがってからだった。このカメラは印刷するまでわからないカメラなので、証明もできない。女達は一向に罪を認めようとしない男に業を煮やし、野次馬も増え、事態はますます悪化するが、もう打つ手なし。八方塞がりだ。どうしようか……と思案するも、打開策は全くもって浮かばない。この街には、長居できそうにない。折角、いい街だと有名になので、来てみたのに。そんな悲しい思いと共に、がくりと肩を落とす。
「ちょっと、あんた聞いてるの⁉︎」
リーダー格っぽい女が俺に詰め寄り、怒りに任せて、手に持ったヒールを振り上げた。ボケっとそんなことを考えていた俺は、不覚にも反応が遅れてしまう。しまった、と思い、咄嗟に眼を瞑った時だった。いつまでたってもヒールが降ってこないので、恐る恐る眼を開けると、女の手首はしっかりと何者かによって掴まれていた。風が、その全身を覆う、紺色のコートを翻す。襟元の銀の装飾が、キラキラと太陽の光を反射して、煌めきを放っていた。女がキッときつく彼を睨む。
「ちょっと!誰よっ?」
「オネーサン」
凄く澄んだ声だった。涼やかな青年の声だ。フードで顔は隠れていたが、フードの中でそいつが笑っているような気がした。
「折角の美人が、怒ってたら台無しだ」
聴き惚れてしまいそうな、その清涼とした声が紡げば。
「な……なによ」
先程までの勢いが萎んで、加えて彼女は心なしか頰を赤らめた。反論の声は弱く、吃っている。青年はその女の右手首を拘束したまま、背中から覆うようにして、彼女の左耳に顔を近づけた。女は顔を更に赤らめ、何も発せない口はぱくぱくと只開閉するだけた。人垣の中からも悲鳴があがる。無理もない。
「ねぇ。俺に免じて、こいつ許してやってくんないかな?」
「な、なんで」
な、なんというプレイボーイぶり。男でも顔を赤らめてしまう惨状だ。ちらりと見えた彼の手は、白く、長く、綺麗で。写真に収めたくなってしまう。彼はさらに、左手で彼女の顎を掴んで、振り向かせる。また人垣からは歓喜にも似た悲鳴があがる。なんて野郎だ。こっちまでくらくらする。




