帰還
「お前、てんで商売の才はないのな」
「ジェノヴァ様こそ。戦のし過ぎでは?」
「うるさい……」
2人はかれこれ半日、帳簿と地図、それから取引の履歴との睨み合いを続けているが、作業は遅々として進んでいなかった。貿易業を営む貴族の従者といえど、実際の業務は護衛ばかり。ジェノヴァよりも役立つものの、サスケの知識だけでは、ハイディー卿の悪行を暴く材料を見つけるのは至難の技だ。
「選択肢が絞れなさすぎる」
「と、とりあえず、一度整理しましょう」
サスケは顳顬を流れる汗をペンを持ったまま手首で拭い、シャツの襟元を緩めた。
「彼の動向が怪しくなったのは、半年ほど前からです」
彼は何か嫌なことでも思い出したかの様に、声のトーンが落ちた。
「きっかけは新規の商売相手または地域だ開拓でした。確かに収入は安定していたものの、特に増えるわけでもなく、貿易業界でも競争相手が増えていて何か新しい索が欲しかった時期でもありました」
「ふむ」
「で、ハイディー卿が提案して来たのは、アルレミドとの貿易です」
ほぅ?とジェノヴァが顎を持ち上げて相槌を打つ。
「国同士がうまく行っていないのに、わざわざ貿易しようという商人はいません。でも裏を返せば、競争が少なく価値は高まります」
「ハイリスクハイリターンって訳だな」
「そういうことです。でもうちは、リスクを取るべきでなかったんです。まず、そんなリスクを背負う程切羽詰まっている状況でもなかったからです。それを強行突破したのが、ハイディー卿。しかも、ウルバヌス国への敵対意識が低い、地方ならまだしも、彼はアルレミドの都東部との取引をやたら断行しようとしました」
「都東部か……」
ジェノヴァは、ミルガの話を思い出して苦い顔をした。
「お前のネロ様は反発しなかったのか?」
ジェノヴァは脚を組み替え、椅子の背もたれに体重を預けた。朝から長時間、あまり動かないでいる為、腰が痛くてしょうがない。昨日、ついつい楽しんでしまったサスケとの対戦の代償として得た脇腹の傷がチクチクとした。彼が申し訳なさそうに、後から手当を申し出てくれたが、大層な傷ではなかったし、女とばれる要素を増やしたくはないので丁重に断り、自分で包帯を巻いたのだが、どうやら緩んでしまったようだ。
「もちろんネロ様は反対でした。あのお方は生まれながらの天才肌で、商業に関して右に出る者はございません。あの時も、アルレミドの地方との取引を進言しておられました」
「へえ。その天賦の才が発揮できなかった訳があるわけか?」
「ええ。半年前は、先代のネロ様のお父様が指揮をとっておられました。ですが、当時先代は病に臥せっており、ハイディー卿の権限はますます大きくなるばかりでした。ネロ様の意見は取り入れられず、結局アルレミド都心との交易はトントン拍子に決まりました。先代も、長年共に家を盛り上げて来たハイディー卿が画策しているなど、考える由もなかったのでしょう」
「重鎮の扱いも難しいもんなんだな」
「ええ。今ではもう彼は、カディング家の全身に蔓延る末期癌のようです。先代がお亡くなりになり、ネロ様に家督が継がれた頃には、うちの家の家計はすっかり傾いでいました。しかし、ハイディー卿の懐には潤沢な資金が入って来ているという話がありまして」
「ははあ、なるほど。あのジジイはカディング家の損益を度外視して、あろうことかこの家の資産を使って内密に取引をしていたと」
「おっしゃる通りです」
目眩を堪えるような仕草で、サスケは額に手をやった。
「お前も苦労してたんだな」
くすくすと笑うジェノヴァに、笑い事じゃありませんと、眉尻を下げた。
「うーん。こっちの持っている情報としては、取引されている物についてかな。違法薬物や人が扱われているらしいんだけど、特に人身売買に関して先に手を打ちたい」
「じゃあ、人のやりとりがしやすい場所ですか?どこだろう」
「僕なら、都での取引を疑うね。あと、月の頭に行われているものは殊更怪しいかな」
2人は同時に勢いよく振り返り、その声の主を見とめると、ジェノヴァは表情をそのままに、サスケは完全に固まった。
「あ。ネロ・カディング」
「蒼眼の旋速者様。ようこそ、我が城へ」
白いストールを肩に軽く羽織り、扉に身を寄り掛からせてそう微笑むのは、その城の主人、ネロであった。
「ネ、ネロ様……。あ、あの、これは……」
右往左往する彼を見て、ジェノヴァとネロは顔を見合わせて笑う。常にハキハキと物申すサスケがしどろもどろになる姿は見ものであった。
「いつも片時も離れないとばかりに警護してくれるお前が、今日は全然姿を見せないので不思議に思ってな。別に良い。お前も良い友を得たのでは?」
「ネロ様……」
「いい主人じゃないか」
感銘を受け瞳を潤ませるサスケにそう言って、ジェノヴァは椅子から立ち上がり、剣を外して片膝をついた。
「この様な形でのご挨拶、お許しください。ジェノヴァ・イーゼルと申します。訳あって貴方様の従者と手を組まことになりました。事情は……お察しで?」
ちら、と伏していた目を上げれば、カディングの肯定の意は容易に受け取ることができた。
「ええ。なんとなくは分かりました。僕も助力しましょう。これ以上、私の家を荒らされるのも困りものですし。貴方はこの国の王子の従者様。一介の地方貴族が手を貸さない訳がありますまい」
もう見ましたでしょう?と彼は憂いに満ちた面差しで、黒の格子のついた窓の外に視線を向ける。今日は雨が降っている。格子を這う水滴が、暗色の石で覆われた城を尚のこと冷たく思わせていた。
「この半年でここまで城が朽ちるほどに我が家の財力は衰えた。街自体が衰えていないお陰か、そこまで懸念されることもなかったが、早く手を打たねばならないと思案していたところだったのだ」
「ハイディー卿の悪行を暴けば、自ずとアルレミドとの火種も判明することでしょう」
立ち上がったジェノヴァとネロはしかと手を結び、ここに協力関係が成立した。
「ちび兄ちゃん。これ、食うか?」
「なんだそれは」
ジェノヴァは訝しげに、男の差し出す紙包みの中を覗き込んだ。
「トーファスっていうシータの郷土料理だ。腹減ってるだろ、食え」
「ありがとう、いただくよ」
男からそれを受け取り、ジェノヴァは豪快に齧り付く。
「ん!美味い」
薄めのもっちりしたパンにたっぷりのキャベツと鶏肉、トマトに香辛料、そして甘辛いソースがかかっていて、
「だろ?船乗りにはトーファスが今でも大人気さ。美味いし食いやすいし、腹もふくれる。ところで、ちび兄ちゃん、ネロ様やサスケ様の知り合いなのかい?」
口の端についたソースを舌で舐めて、ああ、と頷いた。
「友達みたいなもんだ。あと、ちび言うな」
「はー、友達。こりゃたまげた。お偉いさんなのか」
「気を遣う必要はない。お前らはカディング家の専属船乗りと聞いたが」
「そうだ。俺たちはカディング家所属の船乗りだ。元々船ごとに商売するのが基本だったが、今のご時世、船はどこかしらの商団に所属することが多いんだ」
「へぇ。やっぱ収入とか安定するのか」
はむ、とジェノヴァはまた一口、パンを頬張った。彼はすっかりトーファスに夢中だ。
「もちろん。収入だけじゃない。新しい商品について交渉するにも、陸に上がって商売するにも、カディング家の商団の印があれば段違いにスムーズなんだ。安全な取引と自由な交通や商売が担保される」




