潜入
いつどこからの攻撃からもネロを護ることのできる、サスケの隙のない位置取りと、その隙のない意識の巡らせように、ジェノヴァは舌を巻いた。
こりゃ手強い。
無意識のうちに舌舐めずりをした。彼らは奥の部屋へと入っていく。それに伴い、ジェノヴァも部屋を移り、会話に耳を敧てた。
「……だから、…」
「…そう……、ですから…」
「聴き取れないっ」
断片的なワードしか聞き取ることができず、歯痒さに奥歯が鳴った。ジェノヴァは顔を顰め、足をゆっくりと前方に伸ばし、更に彼等との距離を縮めようとして、じわり、とタイルの上に足を滑らせた。
「どうした、サスケ」
「……いえ」
一瞬こちらへと視線を流した彼は気配を察知しかけたが、気付きはしなかったようだ。んげ、と顔を歪めたジェノヴァは、やっぱり近づくのは得策でない、と後退する。
「ネロ様、例の件なのですが。ご協力していただけないでしょうかねぇ」
彼はしわがれた猫撫で声で、カディングを見遣った。ジェノヴァは壁にへばりつくような格好で、視界の悪い隙間から、なんとか様子を覗く。先程よりややきつい体勢にはなるが、致し方ない。目を少しだけ細めて、ぼやける向こう側の明るい部屋に焦点を合わせた。
「ハイディー様、それは検討中だとこの前も申し上げたはず」
サスケはカディングを庇うように一歩前に出ると、そう言い放つ。
「そうかたいことを言うな、サスケ」
ハイディーは嫌悪感を露わに、邪険そうにサスケを見ると、その声をひそめた。脅しとも取れるその目つきは、同じ主人を持つ者に向ける様なものではない。そんな重鎮の態度に物怖じせず、サスケは頑として彼からカディングを遠ざけようとしている。
「私は反対です。リスクが高すぎます」
「何故だね」
皺の多い目の片方を瞑って、取りあうつもりもない様子で彼は言う。
「何故とおっしゃいますか。この前の資料をご覧になられたでしょう」
サスケの額に青筋が浮かんだ。ハイディーとサスケは相当馬が合わないようだ。おおいに揉めてるな、とジェノヴァは目を更に細める。内部派閥が分かれ、統制が整わないことほど面倒なことはない。
「見たとも」
「ですから、私はそのことを言っているのです」
「……お前は五月蝿くてたまらん」
しっしっと手をふるハイディーに、ハイディー様!とサスケは詰め寄った。
「サスケ」
「ネロ様……」
ネロ・カディングはサスケを制し、一歩前に出て宥めるように語りかけた。
「ハイディー殿。しばらくこの件は預からせていただく。返事はそれからだ。いいな」
はい、とハイディーが一歩下がり、恭しくお辞儀する様子を、サスケは未だ不満顔で眺めていた。ハイディーが秘書カシミアを連れ、部屋を出て行った後も、カディング卿とサスケは話を続ける。
「ネロ様、無礼を承知で言わせて頂きます。あの男は信用なりません」
サスケは、カディング卿の横顔に、その急いたような真剣な眼差しを向けた。
「彼は、先代を支えてきた重鎮とも言える人。そう無下にはできまい」
「今回の件は、そうも言っていられません」
彼は、隠していた苛立ちを今や露わにして、彼に畳み掛けた。声も僅かに大きくなる。
「今回は、一か八かの仕事なのです。家計が傾いている今、失敗する確率は極力下げるべきなのに、あの人はそれを分かっていない」
彼の発案は取り下げるべきです、と再度念押しした。
「彼は賭けというものを履き違えています。この様な仕事は一発逆転の道具ではありません。当たるなどという期待は、」
そんなサスケを優しく片手で黙らせてから、カディング卿は口を開いた。
「お前の想いも、彼の思惑も、全て分かっている。その上で、しばらく考えさせて欲しい」
「ネロ様……」
それ以上、サスケは主人を説こうとはしなかった。ただ、その眼差しは少し寂しそうに主を思い遣る不安気に揺れている。部屋を出て行くカディング卿を無言で見送る彼の背中は、不安の重荷に潰されそうだった。暫くして主人が出て行き、1人になった部屋を後にして、サスケは廊下に設置されてある長ベンチに腰かけていた。ずるずると腰を沈め、四肢から力を抜く。曇ったステンドガラス越しに降り注ぐ月明かりが、廊下のタイルに模様を描くのを、ぼんやりと眺めた。石製ベンチから伝わってくる、じわりとした冷たさがズボンを徐々に侵食する。
彼は主人、ネロ・カディングに幼少時から仕える従者。どんな時だって、共に乗り越えてきた。今、新たなる試練に直面している最中である。
「あんの、クソじじい」
先刻の出来事を思い出して、心の内のもやもやを搔き消すように吐き捨てた。ハイディー卿が邪魔だ。決して口には出さないが。確かに、彼が先代を支えていたひと昔前の時代は良かった。俊才で、頭の回転が早い。策士で、弁も立つ。長年、ネロ様の父を支えてきた彼の手腕には、幼な心にも感嘆と尊敬を抱いたものだ。それが今はなんだ。サスケはお手上げだ、というように天を仰ぐ。
「うーん、邪魔だなぁ」
「え」
心の声がもれたかと一瞬戸惑い、ピクリと眉を動かした。
「誰だ」
咄嗟に反応しそうになった身体を無理矢理抑え込み、その低音でゆっくり問うた。戦闘というものは常に唐突で、技術やら持久力やらよりも安定したメンタルを持ち、冷静さを欠かさないことが命を繋ぐ為に重要だ。焦った様子を悟られないようにしながら、彼は跳ね上がった心拍を、呼吸で落ち着けた。気配を完全に消し、見張りもある城のこんな奥にまで侵入するとは。
手練れか。
サスケはぴん、と意識を張り巡らせ、視線だけ動かして、素早く周囲を確認した。俺に声を投げかけた、お前はどこだ。
「ねえ、邪魔なんでしょ。彼が」
少年の悪戯な笑いを彷彿とさせるような声が廊下に反響し、至る所からサスケに降って来た。
「何を言っている」
一人か、仲間連れか、敵は何人いる。
「俺も、今、その気持ちのやり場を失ってんだ」
言っている意味がわからない。
「だからさ、俺の為に一肌脱げよ」
その声は楽しげに謳う。冷たいようで、聴き惚れもしてしまいそうな、声。その声が悪魔の誘いともとも天使の囁きとも勘違いしそうになるほど優しく、言葉を紡ぐ。しかし、刹那にその静寂を裂くものがあった。
「俺のフラストレーションの捌け口としてな」
シュン、と音を立てて空気を切り裂いたナイフが、頰を掠めた。すっぱりと裂けた傷口から、血が溢れた。頰を伝って顎から、ボタタ、と緩やかなカーブを描いて落ちる。
「え」
白い廊下に、不気味なほど不釣り合いな赤い模様ができた。咄嗟に頭の位置をずらさなければ、それは寸分違わず眉間の間に突き刺さっていたことだろう。背後を振り返ると、壁に突き刺さったナイフがビィィンと震えを残している。相当な威力で的確に眉間を狙っていたと理解して、サスケの頭からは一気に血の気が引いた。睨みつけるようにゆっくりと正面に向き直れば。




