潜入
露呈
ウルバヌス国シータ。
「眩しい」
ジェノヴァは独り言ちて、またひと波、人混みを縫った。港街であるシータは、海岸に沿った街道を挟んで店が軒を連ねている。夏の空気に紛れる潮の匂い、雲ひとつない晴天を自由に飛ぶカモメ、堤防に当たる波の音。以前、リーカスと共に偵察に来た際に、港から少し離れた砂浜で遊んだのを覚えている。そんな回想に耽りながらも、彼の目は忙しなく周囲を観察していた。街の人に紛れるよう服や髪型を変え、ひっそりと行動している為、誰ひとりとしてジェノヴァに気付いていない。ミルガの事前調査の情報では、この近辺で頻繁に取引が行われているようだが、今日は現地入りをしただけだったので、様子見だけにとどまっている。やはり、取り引きについての具体的な情報を何かしら得なければ、割り出すことは難しいだろう。
「やっぱ、今回の肝はあそこを抑えることだな」
彼が見上げる先には、濃いグレーの城。手の込んだ豪奢な造りだが、貴族の好む白とはかけ離れた色と様相のせいで、まるで悪魔が住んでいると揶揄されそうな屋敷である。カディング城。この城は、ジェノヴァが目をつけた、この調査の第一関門と言うべき対象であった。そしてジェノヴァの偵察の影は、暫し鳴りを潜める。実行のその時まで。
「姉ちゃん、ビール5杯追加!」
「こっちにも頼むよ。あ、あとこの肉炒めと焼き魚」
「はーい。あ、お兄さんちょっと待ってくださいね、今伺いますんで」
「仕事終わりの酒はたまんねえなぁ」
漁師風情のがたいのいい男達で、少々手狭に思えるような店内は、窓を開けて海風にあたりながら酒を飲む人々で賑わっていた。木樽ジョッキ片手にわいわいと酒盛りに興じる彼らは、彼にとって格好の的であった。街全体にほどよく酔いが周る頃、青年がひとり、乱雑さが刻々と増す酒場に足を踏み入れた。するするとテーブルや人を縫って真っ直ぐに店の奥まで歩く。グラスを布で拭いていた、酒場の歳を食ったマスターは、投げる様にカウンターに置かれた数枚のコインを、手を止めて訝しげに見る。
「ビールを」
「君、随分と若くないかい?飲めるのか?」
「酒を飲みに来てるんだ。成人に決まってるだろ」
前髪の奥から鋭い眼光を垣間見、マスターは身体がすくむ感覚に囚われた。酒場には、色んな輩が訪れる。出身も年齢も様々で、階級なんぞピンからキリまで、悪そうな輩もごまんと訪れる。やんちゃな奴の多い街の酒場は、稼ぎはいいがトラブルも多く、いざと言う時の為の銃を店内に置いておくのが定石で、この店も同様であった。幾多のトラブルメーカーを目にしてきたマスターの長年の勘が、警告を鳴らしている。目の前の小柄な青年の一瞥に、肝が冷えるなんぞ、どうしたことか。
「おっさん、いー面してんね。勘のいい奴は好きだぞ」
「こちとら商売柄、色んな人間見てきてるもんでな」
泡をすり切りまで注ぎきり、動揺を抑えつつ、お代と引き換えにビールを差し出した。
「そうか。賢明だな」
ありがとう、とジョッキを軽く持ち上げ礼を言い、店内の少し窓寄りのテーブルに腰掛けた。そこには、先約が3人いた。
「すみません。ここ、座らせてもらってもいいですか?」
「構わないよ。それにしてもお前若いな、仕事終わりか?乾杯しようぜ」
おう、と応えて、ジェノヴァはジョッキを彼らと合わせ、ごくりと喉を潤した。確かに、仕事はまだ途中だが、美味いビールは身体に沁みる。危うく綻びそうになる口許を引き締めながら、彼はいい子をキープした。
「お兄さん達も仕事終わりなんですか?」
「おーよ。今日も立ちっぱなしで腰が痛えよ。あ、でも剣の稽古もしたぜ!」
「お前途中抜け出してたろ?俺教官から庇ってやったんだ、感謝しろよ?」
「お兄さん達、騎士なんですか?かっこいい!」
他所行きの笑顔を貼り付けて、愛想良くいい子を振る舞うジェノヴァは、きっと見られたら爆笑されるんだろうな、と七刃の面子のことをちらりと考える。
「そうさ。聞いて驚け、俺らの仕事先は、あのカディング城なんだぜ?」
「すげー……かーっこいい!なにそれ!」
子供の様に目を輝かせ、食いつき気味にジェノヴァはテーブルから身を乗り出した。それに気分を良くした彼らは調子づき、酔いが回り、舌も回る。数時間後には、彼らはもう自力で立てないほどに酔っ払っていた。
「あーもう馬鹿、酔いすぎだっての」
3人の肩を組ませ、セットで店から送り出したジェノヴァは、火照った頰に感じる風に目を閉じた。アルコールに誘発された、感覚という彼の機能は、何故か今は少し敏感で、繊細な風の動きを感じ取れる気がする。彼の開いた掌の上には、小さな鍵がふたつ。どちらも少しばかり錆びていて、持ち手の部分は心なしか歪んでいる。
「お兄さん達、ありがとーね」
ふらふらと倒れそうになりながら帰宅するその影に、なんとも読み取れぬにやけ顔を落とす。そして彼は駆けた。地を蹴り、壁を登り、屋根から屋根へ飛んだ。雲に覆われ、月光は地へ届かず、街は寝静まり、灯りは点々としていて少ない。低姿勢のまま足音を殺して移動していた彼は、連なっていた屋根の端に来ると、立ち止まった。眼前には、高々と聳えるグレーがかった暗色の城壁。黒い手袋をした手首を回しながら、ジェノヴァはそれの高さを推し測る。
「ふむ。案外脆い守りだな」
腰にくくりつけていた鉤縄をぐるぐると回し、その勢いで城壁の上部に引っ掛けた。二度ほど引っ張り、金具がちゃんと引っ掛かっていることを確認してから、手にしっかりと縄を巻きつけた。そして、数歩後ろへと下がると、弧を描くように加速した。体重がかかった縄がしなり、勢いに乗ったジェノヴァの身体は、城壁の上へ容易く飛び移る。すぐさま鉤縄を回収すると、壁の内側へ飛び降りた。
「うっわ、なにこれ」
ジェノヴァの脚に絡み付いたのは、伸びきった雑草と、朽ちた枯れ技だ。地方とはいえ、仮にも貴族の庭としてあってはならない手入れのなさだ。彼は枝や草をかき分け、一旦建物の影へ駆け込んだ。背中越しに辺りを注意しながら、脳内に描いた構造図と照らし合わせ、さらに内側の門を探す。
「めんどくせえ配置しやがって」
それもその筈。城というものは基本的に落とされ難い構造をしているものである。このカディング卿の様な、下級の貴族の家は要所という訳ではないので、寧ろ比較的簡易な構造だ。小さな階段を何段も駆け、花壇を一気に飛び越えた先の、小さな部屋には灯りが灯っている。夜番だろう。
「夜遅くまでお疲れ様。お互いお国の為に頑張りましょうねー」
聞かせるわけでもなく、そんな茶化し文句を置き去りにして、彼は死角から駆け抜けて、その部屋の側面の壁をよじ登り、巻貝の様に捩れた構造の内側まで来ると、右から4つ目、下から5つ。指定された煉瓦を押せば、そこには人ひとり分の抜け道があった。
「ビンゴ」
彼はその穴に身体を捻じ込み、無事城内へ侵入した。
「あのお兄さん、締まりのないお口には気をつけなきゃね」
ご自慢の仕事の秘密も、せっかく食べた食事も、全部嘔吐しちゃうなんぞなんとも哀れなこった。そんな台詞とは裏腹に、彼は門番から聞き出した情報を使って悠々と場内を動き回った。




