忠臣
「ぐっ……」
しん、と静まり返った真っ白な空間に、苦しむ声が木霊する。窓からこぼれる光が、その姿を床へと照らし出した。ダイアナに迫ったユリアは、目の前に突然現れた青年によって吹っ飛ばされ、地面に倒れ込んでいた。ぐわんぐわん、とする頭をあげて、ダイアナが立ち去った通路の方を忌々しげに見やる。そうやって歯軋りする様は、もう侍女でも何でもない。
踵で高い音を鳴らして、青年が、女が先程までいた場所からゆっくりと歩いてきた。殺気を纏っているのに、何事もないかのような美しい立ち姿、というミスマッチな雰囲気が彼女の恐怖を煽る。その唇にちろりと赤い舌を這わす姿は、獲物を目の前にした獣。
「どうした。死ぬ気で殺るんじゃなかったのか」
床に伏した彼女を嘲笑うように見下ろす彼を、睨む。彼の蒼い瞳は冷ややかな侮蔑を含んでいる。
「そうよ……。私はこの命が燃え尽きるまで、あの方の為に!」
ふらりと崩れそうになるも、必死に足を踏ん張り、ユリアは立ち上がる。睨み付ける彼女の目は、殺気立ち、狂っている。怨念とも呪縛とも取れる、そのただ一途な衝動だけが、彼女を支配し、突き動かしているのだ。
「じゃあオネーサン。もっと俺と遊ぼうよ」
怒気を全身に纏わせて、狂ったように笑い出す彼女。その様子をジェノヴァは冷淡な眼差しで眺める。彼女はひとしきり笑うと、私は、とぽつりとこぼす。その唇は乾燥して白く、小刻みに震えていた。
「遊びじゃないの。あの女を赦さない。絶対地獄まで連れて行く。その邪魔をするなら、貴方も道連れよ!」
彼女が怒りに任せて吠えたかと思った瞬間。そして、汗に濡れるナイフの柄を握り直して、ジェノヴァに向かって突進した。ユリアのナイフを少しだけ身を捻って避け、肩を両手で押さえると、その捻りの勢いのまま、彼女の腹に膝蹴りを入れる。骨が折れるくぐもった音と共に、傾いだその背中を反対の足で蹴飛ばして、壁に叩きつけた。ヒビを入れた彼女の、頭を掴んでそのまま壁にメリメリと押し付けた。絶叫と鮮血が舞う。
彼女と同等の体格、いや、それ以下の彼の、どこにこんな力があるのだろうか。苦痛からの解放を求めて暴れようとする四肢は、ジェノヴァに悉く払い除けられる。ぼさぼさになった髪を振り乱し、踠き苦しむ彼女を見て、彼は空っぽの表情で嘲笑うのだ。
狂ってる。
彼女は涙の浮かぶ目で、己を束縛して悦楽的な表情を浮かべる悪魔を見た。
「おい、それがお前の死に物狂いなのか。笑わせる」
ジェノヴァの嘲りの篭った声が、酷く冷めて静かな声が、彼女を刺した。ユリアは壁に押し付けられていない方の片目で、目先の彼の顔を、怨みの篭った形相で睨みつける。ナイフを握った指に力を入れるが、彼の右手の拳がそれを手ごと壁に叩きつけた。その拍子に、ナイフはカランと軽い音を立てて、手から離れていく。くるくると回転しながら床を滑るそれは、悲しいほどに虚しい。
「お前は俺と一緒だって?」
彼はせせら笑う。その笑い声は、乾いていて、寒気を感じさせる程冷たい。
「冗談じゃねえ」
彼が手を離すと、彼女は支えを失って崩れ落ちた。
「うっ」
蹴飛ばせば、ユリアは教会の中央へと鞠のように転がった。
「撃滅の七刃の待つ城に、単身で乗り込んできた度胸だけは認めてやるよ」
マリアの頭を鷲掴んでいた左手は、抜けた髪の毛と血で汚れている。手を伝い、滴る血が床に模様を作った。その手をハンカチで拭きながら、全身の力を振り絞って自由の効かない体を叱咤し、後ずさるマリアに彼は近づく。そばにきた靴が持ち上がった。踵が、落ちてくる。意識を手放す直前、彼女は彼の冷徹な瞳を見た。
首に当たる冷たい何かに、声を漏らした。重く、熱を持った瞼を開けると、黒縁眼鏡の男性が穏やかな微笑をたたえて、覗き込んでいた。すらりとした身体を白い制服に身を包み、白い肌にシャープな顔立ち。ユリアは、口元に相反して、全く笑っていない何もかもを吸い込むような黒い目を、ぼんやりと捉えた。
「……誰」
「ああ、はじめまして。リーカス・ケイと申します」
その名前を認識するやいなや、彼女の意識は一気に覚醒した。
「おっと、落ち着いてくださいね」
弾みで切れちゃいますよ、と笑う彼の視線の先を辿れば、自分の首に当たるフルーツナイフ。驚きで、ユリアは声も出ない。暴れようとするが身体の節々は痛く、縄で縛られた体はピクリとも動かすことができない。
「では、洗いざらい、吐いてもらいましょうか」
彼女の断末魔が、地下牢に響き渡った。
ガクリ、頭が重力に争うことなく項垂れて、彼女の意識はもう何度目かの失神をした。
「こんなもんですかね」
彼は牢を出て、汚れた手袋を捨て、水道で汚れを洗い落とす。
「はい、これ。お疲れ様」
「ライアか。ありがとう」
差し出されたタオルを受け取って、濡れた手や腕、顔を拭いた。
「なぜ、ここに?」
外した眼鏡をタオルで適当に拭く姿、よれたシャツや形の崩れたネクタイの所為で、少し疲れているようにみえた。
生け捕りにした敵を締め上げて情報を得る手法は、年上組の彼等が得意としている。緊急性や重要性、その他諸々を鑑みて、基本的に必要な時にしか行使しない。世に言う拷問という、彼等しか使わないそのやり方は、やはり疲れる仕事だそうで。以前レイが拷問を終えた後、珈琲にシロップとミルクをありったけぶち込んで飲んでいるのを、ライアは見たことがある。
「呼びに来た。今から七刃の間で会議、いける?」
「問題ないですよ」
「疲れてるよね。そろそろ俺もこれ、担当していいと思うんだけど」
リーカスが眼鏡をかけ、その切長の瞳で言葉の真意を探るようにライアを見た。その仕草は、なんとも色っぽい。
「お前、こんな仕事やりたいの?流石の俺も、引きますよ」
「引き……。俺らに汚れ仕事、させないようにくれてるんでしょ。これだから年下に甘い年長組は」
「君達にはまだ早いんです。お子様はまだ閲覧禁止ですよ、この女の姿もね。もうここには来ないように」
椅子から今にもずり落ちてしまいそうな格好のユリアを、一瞥いちべつし、リーカスは静かに地下牢の鍵をポケットに仕舞い込んだ。
しかもお前なんて尚更だ、と若干語気を強め、付け加える。
「まだジェノヴァの方が素質があります。お前は……、こういう精神的に痛めつけるやり方を好まないでしょう」
「役に立てるなら、俺はやれるよ」
「気持ちだけ受け取っておきますよ」
自分よりも大きな肩に手を置き、会議に呼びに来たんでしょう?とライアの側を通り過ぎてゆく。歯痒さと彼の優しさに、唇を噛み締めた。石階段を登る足を止めて、リーカスは振り返り、ライアを急かす。報告書であろう脇に抱えた洋紙は、返り血で少し汚れていて、彼は胸が締め付けられる感覚がした。リーカスが報告書の束の1枚目をめくり、隣に並んだライアに渡した。
「これは。また忙しくなってくるね」
「でしょう」




