ミルガの帰国
予兆
季節は夏を迎えた。
強い日差しの日が続き、太陽は今日もまた懲りずにジリジリと地面を焼く。肌に張り付く服の感覚にレイは身じろぎした。
「ほんと、暑い」
思わず何度も口をついて出てしまう。
「今日の予測気温聞いた?38度だよ、38。干からびるよ……」
ライアもぐでっ、と椅子に寄りかかり、お手上げ状態である。いつもきっちりしているリーカスでさえ、うちわ片手にキツそうだ。さっきから何度も手元の飲み物に手を伸ばしている。レイも例外ではない。とっくのとうにシャツは脱ぎ捨て、全開にした窓の側の日陰に寝そべり、もはや無心になろうとしていた。
「もう駄目、無理、死ぬ……。早いところ雑務を終わらせて、水風呂入ろうよ……」
「そうだな。だがまず仕事が捗らん」
ライアとレイは机に戻り、動こうとしない手を叱咤して、書類を仕上げていく。
「ヴェイドは」
「どうせ、また図書館で寝てるだろ」
「ジェノヴァは」
「あれ、どうした、あいつ」
朝から姿が見えないな、とレイが首を捻った時、部屋のドアが開いた。
「いやー、今日はなかなか暑いね」
汗はかいているが、いつも通りの涼しげな表情でカルキが姿を現わした。
「おい、カルキ。ジェノヴァ知らないか」
「ああ、それなら」
カルキが左手を軽くあげる。
「見つけたよ。ちょっと死んでるけど、いい?」
「え、ジェノヴァ?」
カルキの左手にぶら下げられて、屍状態になったジェノヴァが力なく揺れていた。ライアが悲鳴に似た叫びをあげる。
「手合わせする約束してたんだけど、いつになっても来ないから、部屋を見に行ったら案の定こうなってた」
へばっている姿を笑いながらも、カルキは優しくジェノヴァをソファーに寝かせた。レイが、持ってきた水を与えてやる。こくこくこくこく、とすごい勢いで飲んでいくから、大丈夫だろう。よっぽど喉が渇いていたのか、もっと、とせがむので、彼は再び水を与えた。口から少し溢れた水を、レイは指で拭う。
「ペットに水与えてる気分だ」
「う、るさい……」
反論も一応できるらしい。ルーカスはうちわでせっせせっせを風を送ってやり、ライアも濡れたタオルやら、氷の枕やらを持ってきて、甲斐甲斐しくジェノヴァの世話をする。
「うー。死ぬかと思った……」
目を閉じたまま、ジェノヴァがぽつりと、弱々しい声で言う。
「熱中症だね。あれだけ気をつけなよって言ったのに」
カルキが首を竦めながら、呆れた声で叱る。しかし彼の手は、ゆっくりとジェノヴァの前髪を撫でている。
「まさか、部屋でなるとは……。ちゃんと水も飲んでたのに……」
ジェノヴァは顔をげんなりさせた。
「熱中症は部屋にいてもなるんですよ。体調管理も職務のうちです」
「リーカス……、説教は聞かないぞ……」
彼はふて腐れた顔も、今日は力ない。
「とにかく寝てろ」
レイが無理矢理目を瞼を閉じじさせてそう言えば、うー嫌だ、とかなんとか、ぶつぶつ言いながらも、すぐにジェノヴァは寝息を立て始めた。レイはジェノヴァの柔な金髪をさらりと手で梳く。光を浴びる稲穂を思わせる、豊かな髪は掌から溢れてゆく。彼は、苦しげに少し歪められた表情で眠っている。
「全く、手のかかる奴だ」
見つめて、ぽつり。そう言う眼差しはとても優しいものであった。
シャキシャキ、シャキシャキシャキ。
もうすっかり陽も落ちて、風があれば少し涼しく思えるくらいの夕時。シャーベットを砕く小さな音がしている。
「ジェノヴァ、それ何本目」
シャーベットアイスをせっせと腹に収めてゆくジェノヴァをジト目で見て、ライアが尋ねた。彼はその質問を無視してシャーベットを齧り続けるが、ライアの視線に耐えきれなくなったように、呟く。
「……よん」
「もうやめなさい」
「ええっ」
ライアはジェノヴァから食べかけのシャーベットとスプーンを取り上げた。
「あと、あと一本だけ!」
悲惨な表情を浮かべてライアの腕にしがみつき、抵抗するジェノヴァを押さえつける。
「あと一本、もう一本の積み重ねで、4本も食べたんでしょうが」
膨れるジェノヴァを見下ろして、ライアは困ったように眉尻を下げた。背の高いライアがアイスを持った手を挙げてしまえば、彼はどうやっても届くはずがない。それでも取り返そうと躍起になる彼の頭を、ポン、と軽く叩いた。
「もー、お腹壊すよ?」
「うー……」
「唸ってもしょうがないから」
ジェノヴァは朝の状態から完全復活を遂げていた。冷や汗をかいて青ざめていた顔色も、元の血色を取り戻している。ライアはジェノヴァから没取した、食べかけのシャーベットを掬って口に運ぶ。隣からもの凄い圧力と視線を感じるが、ライアは知らん振りを決め込んだ。口の中にレモンと砂糖の甘酸っぱい味が広がる。美味しい、とライアは最後の一口を頬張った。
「……レイは」
ジェノヴァが、下から覗き込んで、尋ねてくる。彼にとって、周囲は全員年上であり、役職もそれなり。大人びた節の多い子に育ったが、こうやって自分たちの前では弟らしいところが垣間見えると、安心する。
ライアは代々騎士団長を務める伯爵家に長男として生を受け、すくすくとその世話焼きな兄貴肌に磨きをかけて育ってきた。そんな面倒見のいいライアの前では、ジェノヴァもすっかり大人しい。というよりも、子供っぽいと言う方が正しいやもしれない。
「会議中」
「むー。ヴェイドは」
「寝てる。カルキもリーカスも、仕事中だよ」
彼の表情はますますふて腐れて、暫く黙ったかと思えば、明るい笑顔で顔を上げた。何だよ、とライアは頰を引きつらせたが、嫌な予感しかしない。
「なぁ、ライアー、試合しよ」
と、とんでもないことを言い出した。
「安静にしてなって」
眉尻をさげつつ、ライアは止めるが、やだやだ、と駄々をこねる。
「やだ。動きたい。ずっと休んでるなんて死んじゃう」
考えを変えるつもりのなさそうなジェノヴァと攻防の末、結局ライアが折れた。いつものことだ。ちょっとだけだからね、と釘を刺すが、こうやっていつもジェノヴァに甘くなってしまう自分に、学習しないなぁと苦い笑いを浮かべた。わーいわーいと万歳の仕草で喜ぶ姿は、なんともいじらしい。
大国ウルバヌスは、軍事に力を入れていることでも有名である。豊かな土地が決まって狙われるのは、いつだってそうだ。その為に、国中から志願者を集め、大きな軍を作っている。国家に組み込まれた大きな組織ではあるが、国政とは切り離されていることと、優秀な人財を集めらだけでなく、育てる環境作りを惜しまなかったことにより、国の軍事力はますます向上する一方だ。国外からは、今や敵なしとも恐れられる、トレジャーノンの軍である。
男ならば1度は憧れを抱く、と言われるのも過言ではない。憧れが理由で入隊するも良し、給料や自分の強みだからという理由で入隊するも良し。
17歳以上の男子であれば、平民貴族関わらず誰でも入隊できる仕組みではあるが、結局厳しい訓練や業務に耐えきった者のみが残ることができる。そのため、生半可な気持ちで入隊した者は脱落してゆき、最後には、厚い忠誠心と結束力のある軍が出来上がるのだ。
加えて、隊長クラスの騎士がなかなかの実力派揃いであることも、軍が強い一つの要因である。これほど多くの人を束ねるのに、実力を兼ね備えた隊長無くしては、成り立たない。




