街と喧騒
「次はこれっ」
はしゃぐ彼女が手渡してきた服を、呆れた顔をしながら受け取って。
「はいはい」
と溜息を吐くように言った。最初の頃は抵抗していたものの、今ではすっかりユキの言われるがままに着ている自分に気付く。
ユキはジェノヴァの育て親のような人だ。ユキの幸せはジェノヴァの幸せで、ユキが喜ぶのは自分のことのように嬉しい。
チリン。
店の入り口の方から複数の人の話し声と床を踏む音がする。客が来たようだ。
「ごめん、それ着といて。すぐ済ましてくるから」
そう言い残して、持っていたハンガーをそこらのテーブル上に放ってから、バタバタと慌ただしく彼女は部屋から出て行った。この放り癖が功を奏し、積もり積もってあの部屋の惨状が出来上がるのだ。
困り顔をするジェノヴァの口角は、ふわりと上がっていることに、当の本人は気付いていない。落ちているハンガーを拾い上げ、机の上に戻す。
いらっしゃい、どうしましたー?と溌剌とした声が向こうから漏れてきた。少しだけ、外の冷気が流れ込んできて、ジェノヴァはぶるりと体を震わせる。彼女と客のやり取りに耳を傾けつつも、早く着替えてしまおうと、ジェノヴァは渡された洋服に視線を落とした。
「これはまた……」
服の肩部分を掴んで目の前に広げて、ジェノヴァは思わず独りごちた。凝り性な彼女の服作りの技術は、年々磨きがかかっているようだ。着させられる度にステッチやら刺繍やらの工夫が増え、デザインもより洗練されてきている。もとから彼女のセンスは良かったが、やはり服の店でも始めたらどうだ、と勧めたいほど。
「何でこんなことしてんだろ、俺」
ぶつくさ文句を垂れながらもボタンを外し始めた。結局は彼女の願いに逆らえないジェノヴァ。彼は煩わしそうに四苦八苦しながら、着ているワンピースのチャックを下ろす。気怠気な空気を醸しつつもブルーの服を脱いで、結局そのワンピースを身に纏ったのだった。
春とは思えぬ寒さに、身が震えた。久しぶりの身の凍える寒さに、イチはかじかむ掌で腕をさすった。
イチは医者見習いである。この間から、王宮公認医師である町医者ユキのところに、医学を学びに通っている。薬草屋の息子で、元々ユキと面識があったため、何度も頼み込んで了承を得たのが、つい1ヶ月前のこと。それから、こうして頻繁に彼女の家を訪れていた。
店の中でお客さんと話しているユキの姿をガラス越しに確認して、裏庭へと回った。雑草を踏みながら回り込めば、傾きかけの錆た裏扉が現れた。彼は錠の外れた取っ手を握り、握った腕に体重を乗せて、ガコンと裏口を開けた。これが雨風の影響で錆びたそれを開けるコツ。ユキがお客様の相手をしている場合は、邪魔をしないよういつもこうやって裏口から部屋に入るのだ。
しかし扉を開けた途端、彼は、えっ、という戸惑いの声をあげて固まった。
「うわぁっ、ごっ…」
ごめんなさい、という謝罪は、伸ばされた掌に吸い込まれていった。
扉を開けて目に入ってきたのは、イチの口を押さえこむ金髪の少女だった。瞳は、深く透明な海の色。陶器の人形に命を吹き込んだら、こんなだろうか。彼女の美しさに思わず動きが止まる。言葉を失って立ち尽くしさえした。しかし、そこからは一瞬の出来事だった。
思いもよらぬスピードと力業で胸倉を掴まれ、引っ張られて壁に叩きつけられた。バンッと物凄い音が鳴る。そのまま片足を引っ掛けられて、傾いていたイチの大柄な身体は、重力に逆らうことなく床に押し倒された。その拍子に、ぐえっ、という潰れたカエルのような声が出るも、彼女は容赦しない。腕はあっという間に背中でまとめ上げられ、使えなくなった。その間にも、近辺を彷徨っていた彼女の左手が、落ちていたペンを掴んだと思ったら。
ガンッ!
顔の、数センチ先に穴が開いた。恐ろしい少女だ。
「……何者」
少女しては少し低い声。でも、心地よい。イチを敵とみなし、脅している。イチの背中に跨った彼女の身体は軽いのに、彼は身動きが取れない。どこか要所をしっかり抑えているのだろうか。平静を取り戻しつつあったイチの様子を見て、彼女は眉間に皺を刻んだ。
「……刺すぞ」
「え、ちょ、待てっ」
恐ろしいことをさらりと言った彼女に、慌てて腕に力を思い切り入れた。たとえ殺傷能力の低いボールペンでも、刺されてはたまらない。
「ジェノヴァどうした?なんか凄い音したけど……って、あれ」
丁度扉を開けたユキが、固まった。
「すまんすまん。イチに裏口使わせてたの、すっかり忘れてた」
両手を合わせて謝りながら、菓子食うか、茶でも飲むか、とユキはご機嫌取りにはしる。ジェノヴァの目の前には、見る間に菓子の袋が山積みになった。
ユキと一緒にテーブルを囲むのは、不機嫌なジェノヴァと頭を抱えこむイチ、そして何故か冷静なままのヴェイド。4人の周りにはどよん、とした空気が漂っていた。その空気の主な源のジェノヴァは、苛つきと若干の不安の混じった表情。彼のすらりとした指先は、その動揺を隠しきれずに机の上で小さく爪で音を立てている。




