捨てられた猫は、大きな魚を食べる夢を見る。
俺は猫、野良猫である。
将来の夢は、こいのぼりくらい大きな魚を食べて死ぬ事である。
今は住みかに帰ってきて、寝る準備をしている。
だが、今日の御馳走の余韻に思わず顔がニヤけてしまう。
「今日の飯は美味かったな~」
思った以上に、うまい残飯にありつけた。
その余韻に浸りながら眠りに就こうとして、ふと思う。
人間達は、猫はこたつで丸くなるとゆう歌詞の一節を知っているのだろうか。
猫は寒いところが嫌いだと言いたげな歌詞だが、その事に関して言いたいことがる。
猫は暑いところだって好きではない、だって暑いから。
だから、仲夏の夜は俺にとって憩いの時間である。
ここは林に捨てられた廃バスの運転席、季節は虫の声が聞こえ始めた七月の頃である。
野良猫というが正確には捨て猫であり、俺を捨てた人間は毛並みが好きではないと言って何匹も飼っていた猫の中から俺を選んで捨てた。
唯一の慈悲は、屋根のあるここに捨てたことくらいだ。
廃バスは相当の年月が経っていたのだろう、骨組みは錆びて名前の分からない木の蔦が窓枠を伝い枝木が天井を這いよく分からない実を着けている。
食べようとも考えたが、食べられる気がしなかった。
だから、今は閉店した飲食店のごみ箱から盗った残飯を食べて飢えをしのいでいる状態だ。
食に困り、温かい家も失った。
本来ならば俺は人間を恨んで然るべきなのだろうが、飼われていた時から主の顔を覚えられなかった。
だからきっと、俺は飼い猫に向かなかったのだろう。
それに今のこの生活は、不便ではあるが気に入っている。
好きなものを食べて誰に気を遣う事もない。
まさに自由な暮らし、猫に相応しい生き方だ。
だからだろうか、俺は猫を馬鹿にする言葉が嫌いだ。
猫にベーコンとゆうオランダの諺があるのだが、意味合い的には猫に小判と似たようなものだ。
価値の分からない者に高価な物を与えても仕方がないとゆう意味であり、猫に物の価値は分からないとゆう先人の有難いお言葉である。
もしも、この諺を考えた先人に会えるならば是非とも聞いてみたい。
「果たして人間はモノの価値を分かっているのか、とね」
猫の癖にと思われるかもしれないが、俺はそれを人間達に問う資格があると思っている。
何故なら俺は人間のエゴを目の当たりにした猫であり、自分のエゴを貫いている猫だ。
だからこそ、理不尽に捨てられたこのバスの様にしぶとく生きてやろう。
そう決意し、夏風に毛を撫でられながら眠りについた。




