第三十一話 俺と、晴幸 (第1章最終話)
「この辺りに入れたはずだが......」
日が傾く。俺は一人で筆と硯、そして便箋を探す。
確か甲斐へ向かう際に、持って来ていた筈だ。
数分程かけて探し上げた俺は、安座の姿勢を取る。
脳内で文の構成を練ようとするが、中々纏まらない。
やはり普段から書かねば、手紙というのは書き慣れないものだ。
「致し方ない、厠で考えるとするか……」
俺は一旦休息を挟むついでに立ち上がった。
「何と書くつもりじゃ」
その時、ふと男の声が聞こえ、その方を向く。
縁側に男が一人、座っているのが見えた。
「……誰かある」
俺は顔をしかめてみせる。
先程まで、そこには誰もいなかったはず。
物音も立てずに、此処までやって来たのか?
「何じゃ、まさか分からぬと申すか?
折角お主の許へ来てやったというのに」
男は振り返る。
その顔を見た瞬間、俺の思考は停止した。
赤き目を持つ、隻眼の男。
目前の男は俺と同じ、山本晴幸の姿と瓜二つであった。
「ははは、ようやく会えたのぉ」
男は笑っているが、俺はただ混乱していた。
この男は何者なのか?そんな問いだけが終始彼の頭を覆い尽くしていた。
「御前は何者だと、そう訊ねるつもりであろう、お主の考えは全て筒抜けじゃ」
「!?」
「図星か。全く......《何者か》など、お主が誰よりも分かっておる事であろうに」
そう口にする男を、俺は睨み顔で見るのである。
男の目に、光は灯らない。
「……何のつもりじゃ、何故今になって儂の前に現れた」
「まあ聞け、まだしばし時がある。お主に全てを語ろうではないか」
間違いない、この男は、俺の中に潜む「何か」。
しかし、俺の中にいたはずの存在が、どうして俺の前に具現化して現れたというのか。
俺は納得のいかない表情を浮かべていた訳だが、それでは話がまともに進まないと思い立ち、渋々従うことにしたのである。
「お主が儂として目覚めた日のことを覚えておるか?あの日の晴幸は病に伏せ、死ぬ運命であった。」
「死ぬ、だと?」
突然の一言に、俺は驚愕する。
目前の男は表情を一切変えることなく、ただ一点を見つめ続ける。
「周りには秘めておったが、儂はかつて重い病を患っていたのだ。あの日の暮れには、儂は床の間で息を引き取るはずであったが、その間際になり、初めて《悔い》が儂を襲い始めた。
諦めの悪さが仇となったのだろうな。主君にも仕えず、城も家臣も無い武士とは、死ぬのも死に切れぬ。そういった思いが身に纏わりついてしまった。
まだ死ぬわけにはいかぬと、朦朧とした意識の中でそう強く念じた途端、どういうわけか、儂は霊体として目覚め、同じく御主が憑代を失った儂の代わりに、この身体に宿ったというわけじゃ」
晴幸の話を理解するのに、少しばかり時間がかかった。
つまり彼が言及しているのは、自分は『本物の山本晴幸』であり、死ぬ筈だった晴幸の身体に俺が乗り移ったことで、晴幸の命が繋がれたという事実。
しかし、如何して俺が現代からこの男の身体に転生を果たしたのか。それについては、晴幸本人にも分からないのだという。
「誠に済まなかった、お主を巻き込むつもりは毛頭無かった。
しかし、お主が儂の代わりを務めてくれて、誠に良うござった。
お主の御陰で、良き主君に仕える事が出来たのだ。感謝する」
俺の御陰では無い。俺を選んだ晴信に礼を言うべきだ。
しかしながら、彼の口にする通りなのかもしれない。どの時代でも生きたいと思うのは、きっと人間として当然の性である。
巡り巡った運命の中で、俺は〈偶然にも〉この男に転生を果たしてしまったのだろう。
「......いや、やはり其方には謝らねばならぬな」
晴幸は拳を握り、地を俯く。
「何の前触れもない。己が身に熱を帯び、身震いがする。
望んでおらぬというのに、気付けばその身体を奪ってしまっておる。
それも全て、生き身を求める霊体としての性か、生きたいと願う己への罰か。
無論、御主には悪いと思っておる。しかし、自身の欲を抑える手段が、如何しても見つからぬのだ」
この男に同情すべきかどうか、迷ってしまう。
語り口を失った俺に、晴幸は己の発言がいかに相手を悩ませるものかを知り、黙り込む。
そんな二人の間に、《空虚》は生まれた。
暫くの沈黙。俺は宙を眺める。
曇天が空を覆い、冬の乾いた空気に喉の渇きを誘発する。
今更何を言われても驚きはしない。
異物の《暴走》が自我を持った上での行為でない事に、俺は内心安堵していた。
「......儂もずっと其方を、好いておった」
「っ!?」
「何じゃ、頰を赤く染めおって」
驚嘆する俺を見て、晴幸は笑った。
俺が甲斐に立つ事を決意した際に、若殿に伝えた言葉である。
からかわれているのか。それとも、場を和ませようとしているのか。
どちらにしても、思い返し恥ずかしくなる事には変わりなかった。
「儂は女を好いた事は一度たりともない。
しかし、お主の御蔭で少しは知る事ができた。
誰かを好くというのも、案外悪くないものだな」
俺は身体の熱さを感じながらも、悟る。
この男は、ずっと一人ぼっちだったのだろう。
戦に明け暮れ、誰かを愛する事はおろか、友すらも。
「......御前は何者じゃ」
「そういう御主は一体、何者だ」
「......儂は数百年という先の世から、此処へ誘われた身だ」
「これから世がどう動くか、知っておるのか」
「知らぬ。儂は過去の逸話などに興味はない」
「......生きたいと思うか」
「当たり前ではないか」
いや、それは嘘だ。
どうせなら、死んでしまいたかった。
死ねば元の時代に、元の《俺》に戻れるのではないかと、何度思ったことか。
ただ、生きたいと思うのは誰もが持つ感情である。だから残酷なのだ。
「……そうか、ならばお主に一つ頼みがある。
簡潔に申せば、儂と契りを交わして貰いたいのじゃ」
「契り……?」
晴信は真顔で、俺に向け、手を差し出した。
「その身体を、この儂に預けてもらいたい」
「はっ!?馬鹿を申すな!断じてやらぬ!!」
俺は予想外の発言に、思わず大声を出してしまう。
「……言い方が悪かったな。無論、金輪際儂のものにするつもりはない。
お主に《儂の力を貸す》という意味じゃ」
「力を貸す、だと?」
「ああ。お主がどうしようもなくなった時や、身の危険を覚えた時のみで良い。困った時は儂を呼べ。
儂がこの身体へ乗り移り、培った知識や剣の技術をお主に授ける。儂がその身体を借りる対価じゃ。
儂がお主の守護霊となろう。お主を守ること、約束致そう」
そう言えば、この男は心が読めるんだったな。
どうにも嘘を言っているようには見えない。
突拍子に現れ、変な行動をされるよりはましか。
「それは、誠であるな……?」
「ああ。だがその対価として、夜間は儂にその身体を預けて欲しい。なに、お主が眠った後から目を覚ますまで、儂がその身体を貰い受けるだけじゃ。
さすれば生き身を求める衝動に駆られ、不意に憑代を奪うこともなくなる。仮に眠っておる間に野党に襲われたとて、案ずることもなかろう」
晴幸は漢発入れることなく、二度頷いた。
俺はその発言に、長い吐息を吐く。
「……承知した、元々は御前の身体じゃからな」
「忝い」
返答に、晴幸は微かな笑みを浮かべる。
やはり恐ろしい。
この男を信用しても良いものか、未だに悩んでいる。
何か、別の目的があるのではないか。
全ては此の男の思惑通りに、事が進んでいるのではないか。
そう思ってしまう程、人間不信になっているだけかもしれない。
それでも誰かを信じたいと思う。単なる偽善だと言われても、俺は何も言い返せない。
だが、俺は転生を果たして思い知った。
誰かを信じなければ、前には進めないと。
「そうと決まれば、じきに陽が沈むぞ」
気付けば、西の山に陽が沈んでいる。
夕陽の上部が、山の陰に隠れたその時
「......っ!」
俺は胸を押さえる。
鼓動が速まり、身体が熱くなってゆく。大量の汗が溢れ出す。
あの時と、同じ感覚。
「では、これからも宜しく頼むぞ。山本晴幸殿」
晴幸の発する其の声は、俺の耳から徐々に遠ざかって行く。
待て、教えてくれ、
御前は、如何して其処まで、俺をー
そこで意識は、ぷつりと途切れた。
目が開く。
辺りを見渡せば、何ら変わりない屋敷の光景が広がっている。
畳の上で仰向けになっていた俺は、目を細めた。
今までの事は、全て夢だったのか。それとも
そうだ、筆と硯を出さなければ。
思い立った俺は、ゆっくりと立ちあがる。
陽は既に、東の山から顔を出して居る。
朝日が屋敷を照らし始める。
今日も、甲斐での一日が始まる。
時は戦国時代。
人々が武器を持ち、領土拡大を目指し争う戦乱の世。
そんな時代に現れた一人の男。名を山本晴幸と言う。
此れは、一度死んだ武田の参謀と、ふとしたきっかけから彼に転生を遂げた現代人が、与えられた術を使い、武田晴信、後の〈武田信玄〉を天下統一へと導かんとする物語である。
第1章 完
此れにて、第1章完結です。
二人の山本晴幸は、これから起こる数々の出来事を通じて、
歴史の歯車を、少しずつ狂わせてゆきます。
第2章からも、どうぞ宜しくお願い致します!




