病弱な私が羨ましいなら、喜んで変わって差し上げます
人って痛みを感じないと、痛みが無いという有難さが分からないのではないかしら?
ファルフェ・ベルート伯爵令嬢は寝台の中で、そう思った。
あの忌まわしい頭痛が始まれば、何も手につかなくなる。
咳が出れば、呼吸だってままならない。
(自由に息を吸って吐く、そんな事すら出来ない私の、何が羨ましいというの?)
姉のロドリー・ベルートはいつもそう言っていた。
面と向かって言われてはいないけれど、いつだって、そう。
「わたくしは健康なのだから、仕方ない」
「でも、わたくしが熱を出したからって、両親も婚約者もわたくしの元へなんか来ないもの」
そんな風に幼馴染のスコット・エヴァンスに言っては、彼に慰められているのをファルフェは知っていた。
確かにロドリーの言う通り、両親はファルフェに対して過保護だ。
それは身体が弱いから、というのは間違いない。
寝台からあまり離れることが出来ないファルフェを思い遣るうちに、それが定着してしまってしまったのも知っている。
姉に申し訳ないと思う気持ちはあった。
両親や婚約者が姉に贈り物をすれば、社交辞令で「素敵ですね」「お姉様によく似合いそう」と声をかける。
でもそれが、彼らには「病弱な妹が姉を羨んでいる」という風に器用に変換されてしまう。
同じ物を用意してくれているのだと思っていたそれが、姉の物だと知ったのは大分歳を重ねてからだった。
「知らなかったのです、お姉様。お返しします」
「いいえ?要らないわ。それはもう、わたくしが頂いた物ではないもの。可哀想な貴方がわたくしから奪ったものだとしても、わたくしが取り返したと両親は怒るでしょう」
「奪ったつもりはなかったのです」
「そうでしょうね。貴女は何時もそうやって天使のような顔でわたくしから全てを奪っていくの」
全てを、奪っていく。
両親の愛情。
婚約者の歓心。
贈り物。
使用人達の忠誠。
(いつ、そんなものをわたくしが欲しがったというのかしら)
ファルフェを見るロドリーの目は冷たい。
静かな口調でファルフェは口にした。
「全て………そう、全て、ですのね、お姉様」
「ファルフェ?」
「交換してくださいますか?もし、お姉様が言う全てとお姉様が持っている全てを私と交換して頂けるのなら」
「何を馬鹿な事を言い出すのかしら、この子は」
「お姉様が奪っていくと言った全ての物をお返ししたいんです。わたくしは欲しいと思っていないから。お姉様も、そうなんでしょう?だったら、間違っているのは周囲じゃなくてわたくし達だわ」
「そんな事が出来るわけ、ないでしょう」
諦めた様に言うロドリーにファルフェが微笑んだ。
「それが、あるのです、一つだけ」
この国には静かに信仰されている女神がいる。
運命の女神と言われるその一柱の神はとても不思議な力を宿していた。
心から望む二人の運命や魂を、交換出来るのだ。
知識や記憶や性格は魂に受け継がれ、美貌や健康や技術は肉体に受け継がれる。
たとえば本を読んで得た知識は、交換後も覚えているが、それを実践する事が出来るのは肉体だ。
裁縫であれ、剣であれ、肉体で覚えた技術は頭で分かっていてもすぐに実践は出来ない。
もう一度、一から始めなくてはいけなくなる。
一週間の準備を終えて、二人は両親に内緒で神殿へと訪れた。
ロドリーは妹の我儘を聞き入れる優しい姉として。
ファルフェは一縷の望みをかけて。
そこで司祭に幾つかの注意を受ける。
「此処で女神さまに魂を交換して貰った後は、再交換は出来ませんがよろしいですか?」
「「はい」」
女神像の前に跪いた二人の少女が声を揃えて言う。
司祭は頷き、荘厳な女神の像を見上げて続けた。
「そして、運命が交換された後は、その事を口にする事は一生できません」
優しくも厳しい眼差しを二人の少女に注ぎながら、司祭は続ける。
「それでも、交換を望みますか?」
「「はい」」
淡いミルクティ色の髪と空色の大きな瞳を持つファルフェが頷き、追従するように黒髪に紫の瞳のロドリーが頷く。
「ほらね、言ったではないの。あれは御伽話なのですよ」
「いいえ、お姉様。誰も口に出来ないから、広まらないだけです」
馬車の中で憂鬱そうにロドリーが窘め、ファルフェはにこやかに首を左右に振った。
ともあれ、妹の我儘には付き合ったのだから満足だろう、とロドリーは溜息を吐く。
ロドリーの婚約者のジョルジュは公爵令息で、三男だ。
ベルート伯爵家に婿入りが決まっているし、それなりに優秀なので領地経営などはロドリーの補佐として切り盛りできる。
幼い頃から山と積まれた書類と挌闘してきたロドリーにとって、ただ甘やかされるだけの妹は羨ましくも憎らしい存在だった。
領地を豊かにして財産を守らなければならないロドリーは幼い頃から作法に勉強にと、厳しく時間を管理されていたのだ。
妹は寝台の上で、ただ笑っていて。
朝には必ず、幸せそうに母と庭を散策している。
ロドリーは一度だってそんな風に母と過ごしたことはないのに。
何もしなくても愛でられ、愛される。
美しいジョルジュは紳士的で、ほんの少しだけ傲慢だったが、夫としては申し分なかった。
婚約者としても礼儀正しく、折に触れて贈り物だってくれる。
領地経営についても学んでおり、入り婿としては理想的だ。
ただ一点を除いては。
「ファルフェ嬢はもっと嬉しそうに礼をするよ」
そう言われた時の衝撃は、忘れられない。
嬉しかったし、だから礼を言ったのに。
淑女教育をまともに受けられずに満面の笑みを浮かべるあの子と比べられても。
けれど、口答えをする事は許されない。
「失礼、致しました。あまりにも嬉しくて、胸が詰まっておりましたの」
「そうか、私の言い方も悪かった」
取り成すように言えば、ジョルジュは素直に非を認める。
私も、と言われるのは癪だったがそれでも、一方的に非を押し付けられるよりはマシだった。
「ファルフェは……妹は可愛らしい子ですから」
「ああ、そうだね。素晴らしい令嬢だと、思うよ」
身体が弱い事を除けば。
誰もがそう思っていた事だろう。
だから、ロドリーの婚約も安泰なのだと思っていた。
父のベルート伯爵とジョルジュの話を聞くまでは、確かに。
「どうだろう、ジョルジュ君。君には愛らしいファルフェの方が妻として相応しいのではないかな?」
「ええ、ええ、確かに。ですが……、ロドリーが……」
(ああ、彼は拒んで下さるのね)
ロドリーの胸の奥でとくりと心臓が跳ねた。
だが、続けて放たれた言葉の矢に、あっけなく撃ち落される。
「彼女との婚約が障害になります」
「それは、どうにでもなるよ。ロドリーは嫁に出してしまえばいい」
「ベルート伯爵が仰るなら、喜んで……!」
(障害……?)
(わたくしは、ただの障害でしかなかった……?)
確かに可愛げは無いと自覚していた。
ファルフェのような大きな零れそうな瞳もしていない。
吊り上がった切れ長の目は冷たい、鋭いと言われる。
小さくもぽってりと膨らんだ、果実のような唇はしていない。
薄くて女性らしさの薄い唇だ。
何でもできる長女は、だから周囲から放っておかれた。
勿論、使用人達が最低限の世話をしてくれるけれど、それだけ。
ふらりと倒れそうになり、壁に寄りかかると使用人が声をかけてくる。
「大丈夫ですか?お嬢様……」
「触らないで」
ぴしゃりと言えば、脅えたように目を瞠った使用人は伸ばしかけた手を引っ込める。
「大丈夫です」
ロドリーはピンと背を伸ばして部屋へと歩いて行く。
父と婚約者が、知らない所で婚約者のすげ替えを約束している。
ファルフェはまた一つ、ロドリーから大事なものを奪ったのだ。
そんなある日に、あの馬鹿げた御伽噺に付き合わされる事になり、応じたのは気持ちがむしゃくしゃしていたせいもあったかもしれない。
ファルフェの「お姉様の欲しがる物は全て要らない」と言う、可愛らしい顔が妬ましかった。
何もかも奪われてごらんなさい!とそう叫び出したい気持ちを抑えて。
だから、本当に、入れ替わっても良いと思ったのだ。
何もせずに全てを与えられて、幸せが約束されているのなら。
今更、婚約を解消されて、新しく探せと放り出されるか、それとも。
親が見つけて来た他の男と婚約するだけなのだ。
見た目も身分も申し分ないジョルジュが、黙っていても補佐をしてくれるのだし、今まで学んできた領地経営の知識もある。
だから入れ替わったとしても、伯爵家は安泰だ。
(要らないというのなら、貰ってあげるわ)
そして、翌朝。
それぞれの身体で、それぞれの生活が始まった。
(ああ、嬉しいわ。わたくし、本当にお姉様になれたのね)
(ああ、何て事……本当に天使のようなあの子になれるなんて)
ロドリーの朝は早い。
今まで身体を起こす事さえ億劫だった身体が羽のように軽いのだ。
自分で鎧戸を開けて、朝の新鮮な空気を吸い込むだけで、生命力にあふれる気がした。
初めて、水面から顔を出して呼吸したような、清々しさ。
胸の中にずっとあった重りが消えてなくなったような。
それだけでロドリーになった事が幸せだった。
「お早うございます、お嬢様。今朝はお早いのですね」
「ええ、待ちきれなかったのですわ」
「そう言えば、今日はラフォート公爵令息がお出でになる日でしたか」
そんな事は知らなかったが、そう言えばファルフェだった時に「今日は大事な話がある」と言っていたかしら、とロドリーは首を傾げた。
「すっかり忘れておりましたわ。では、髪を結ってもらえる?……出来るだけ地味にして欲しいの」
「えっ」
「ほら、ジョルジュ様はファルフェに大事な話があると言っていたらしいから、わたくしが目立つのは良くないでしょう」
笑顔で言えば、小間使いは目を白黒させる。
あからさまな不審な態度は、ロドリーの「奪っていく」という発言と、「婚約者はわたくしの元へ来ない」という愚痴がかちりと欠片が合わさる様に腑に落ちた。
(ああ、お姉様の言っていた事は本当なのね。でも、それならきちんと、ファルフェになったお姉様を、ジョルジュ様に面倒見て頂かないといけないものね)
「ね、すぐわたくしの支度を手伝って。お父様にお話があると伝えて欲しいの」
「は、はい、直ちに」
小間使いは飛び上がる様にして廊下に出て行き、扉の外で従僕を捕まえて何ごとかを話した後で、鏡台の前で待つロドリーの背後に立った。
「ただいま髪結いの小間使いも呼んだので、お召替えを先に致しましょう」
「ええ、よろしくね」
ロドリーのいつにない柔らかい言葉遣いに、小間使いは驚きを隠せなかった。
いつもは言葉少なに命じるだけで、笑顔を見せることもない。
優しい声色を聞いたのは初めてだったのだ。
支度が済んだロドリーは早速ベルート伯爵の執務室へと向かった。
(ああ、ああ、嬉しい。わたくし、廊下を歩いているわ。自由に、屋敷の中を歩き回れるなんて)
「失礼いたします、お父様」
「話があるという事だが、私にもお前に話さねばならない事がある。だが、まずはお前の話から聞こう」
鷹揚に勧められて、ロドリーは足を屈して軽く挨拶をする。
「実は、ジョルジュ様の婚約者をファルフェに変えて頂きたいのです」
「……な、何故お前が、それを」
何故?とロドリーは首を傾げる。
(お姉様は奪っていくと言っていたのだから、公然の秘密ではなかったのかしら?)
「ファルフェは病弱ですが、こっそりと領地経営について学んでいたそうですし、ジョルジュ様の手助けがあれば十分にベルート伯爵家を盛り立てることが可能だからですわ」
「……ふむ、だとしても、お前はどうする」
「わたくしは、暫くの間、もう一度淑女教育を受け直す事をお許しください」
お前は何もしなくていい、と言われて本を読む事でしか知識を得られなかったのだ。
基本的な挨拶や、舞踏の足運びを覚えてはいる。
だが、見るのとやるのでは大違いだし、魂の交換では技術は肉体に宿るとはいえ、その噛み合せはきちんと行うべきなのだ。
それに生きた知識を得ないと、時代遅れや流行遅れの知識止まりだと恥を欠いてしまう。
「ふむ、確かに。嫁に出すのなら、そちらの学びの方が大事になるだろう。分かった、手配する」
父の許可を得て、学びの機会は得た。
それからもう一つ、大事な事を伝える。
「本日のジョルジュ様…いえ、ラフォート公爵令息との面会には、わたくしは不要かと存じます。二人を心から祝福するとだけ、お伝え頂けますでしょうか」
「そこまで……そこまで妹を、ファルフェを大事に思っていたのか……うむ、伝えておこう」
涙さえ浮かべながら、父は言う。
さっきまでの、余所余所しい態度とは大違いだ。
それはそれで、新鮮だったし、姉はこれから両親の愛情も婚約者からの愛も沢山貰えるのだから、喜ばしいことである。
少なくとも今のロドリーにとっては良い事だ。
「付添人を連れて行くので、街歩きの許可をくださいますか?家にいるとファルフェが気遣いをしてしまうかもしれませんから」
「何から何まで、出来た姉だ……うむ。使用人には金も渡しておく。本でも宝飾品でも好きな物を購入しなさい」
「有難う存じます、お父様」
街歩き。
それは願っても願ってもファルフェだった頃には許されなかった贅沢だ。
姉が幼馴染のスコットと喫茶店に行くのを羨ましいと思っていた。
たまに気を使って、お土産を買ってきてくれた姉の優しさはとても嬉しかったのに、恨まれているなんて知らなかった自分が愚かしくて、歯痒い。
でも、望む物がお互いに手に入るのなら、これ以上の事は無いだろう。
あの頃の優しさを真似て、ロドリーも家で待つしかない姉にお土産の菓子を買って帰ろうと心に決めた。
(お姉様がよく行っていたお店は確か……)
記憶を頼りに店の名を言えば、御者が勝手に馬車を回してくれる。
通り過ぎる街の風景も、いつ振りに見たのか……女神の元へ行った時くらいしか覚えがない。
店の近くに止めて貰った後で、馬車から降りると突然声がかかった。
「ロドリー、君、どうしたんだ。こんな所にいて、いいのかい?」
「あら、スコット様。ええ、今日はラフォード公爵令息と会う必要がなくなったのです」
だが、スコットは怪訝な顔ををしてぴたりと足を止めた。
「スコット、様?……何故、そんな他人行儀な呼び方を」
「申し訳ありません」
ロドリーは謝罪しながら考えた。
女神の制約で魂の交換に関する事は口外できない。
だとしたら、少しだけ嘘を吐く必要がある。
「実は最近、頭を打った拍子に記憶が混濁する事がありまして……スコットの事はきちんと幼馴染だと、覚えていますし……」
「幼馴染……」
何故か衝撃を受けた様に、スコットが目を伏せる。
「それに、ええと今日は特に混乱しておりますの。実は婚約が解消になりまして」
「婚約解消!?まさか、あいつが……!」
突然激高したスコットに驚きつつも、ロドリーはその腕を宥めるように掴んだ。
「いえ、わたくしから申し出たのです。ファルフェにお似合いだと、そう思ったものですから」
ロドリーの言葉を聞いたスコットは、痛みを堪える様に唇を震わせる。
「君は、それで、いいのか」
「はい。元々、わたくしとは縁がなかったのです」
(実際に婚約していたのは姉だし、それが姉に戻るだけだものね)
元々の姉は嘆いていたのかもしれない。
本当に好きだったのか、報われない我が身が哀しかったのかは今となっては分からないけれど。
でも今のロドリーは違う。
記憶も魂も感情もファルフェなのだから。
悲しみの無いロドリーを注意深く見て、スコットはほっとしたように呟く。
「そうか」
「ええ、ですから今日は街歩きの許可が出ましたの。姉にもお土産を買って帰ろうかと」
「君はその………君の物を奪っていく妹を、嫌っていたのではないのか?」
ずきり、と胸に杭を打ち込まれたかのように痛む。
一番近くで、姉を見守って話を聞いて貰っていた人から問いかけられるのは、殊の外胸が苦しい。
「仕方ないこともあるでしょうし、もう終わった事なんです」
嘘ではない。
魂の交換をして、お互い得たい物を得るのだから、憎しみに縛られる必要は無かった。
ロドリーの微笑みに、勇気を振り絞る様にしてスコットは言う。
「だったら、私と婚約してくれないか?単なる幼馴染から婚約者に、してほしい」
でもそれは。
これは本当に姉の物を奪う、行為になりはしないだろうか、と魂が揺らぐ。
今までは欲しくて奪った事など無かった。
意図すらしていなかったのだ。
だからといって、一から婚約者を探すには途方もない労力が必要だし、何よりスコットは姉を見て来たのだから違いに気づかない筈はない。
(もし、本物じゃないと見抜かれて後々断られるならそれでいいのよね)
「はい。謹んで、お受けいたします。……ですが、もう一度淑女教育を受け直している最中なので、それが修了となり次第で宜しいでしょうか?」
「ああ、それくらい、待つよ。待つ事なんて、大したことじゃない」
嬉しそうなスコットに導かれて、ロドリーは初めての街歩きを満喫した。
ファルフェとして目覚めた時、確かに可憐で天使のような妹に姿が変わっていた事に喜びはした。
だが、すぐに感じたのは倦怠感だった。
酷い風邪を引いた時のような、重苦しさが胸の辺りに留まっている。
けほ、と咳をしてみるが、その重さは消えてなくならず、代わりにひゅ、と喉が鳴った。
身体の中にはひゅうひゅうと風が吹くかのような、不快な音。
空気を吸っても、どこかから漏れ出てしまっているような息苦しさ。
「大丈夫ですか、お嬢様」
血相を変えた小間使いが駆け寄ってきて、背中に積まれた大きな枕を直し、水を差しだしてくる。
大丈夫か?と聞かれても、大丈夫な訳がない。
苦しくて仕方がないのだ。
言葉を紡ごうとしても、けほけほと咳に変わる。
「咳が落ち着かれたら、お薬を」
差し出された薬包みを開いて、粉の薬を水で流し込む。
(苦い。けれど、これで苦しくなくなるのかしら)
そう期待したものの、咳が治まっただけで苦しさは治らない。
身体の不快感とファルフェが戦っている内に、父と母が笑顔を浮かべて部屋に入ってきた。
「ファルフェや、今朝も朝から咳込んだようだな。無理をしてはいけないぞ」
「そうよ。大事な身体なのですからね」
愛しむ目を向けられて、ファルフェは力なく微笑んだ。
どんなに優しくされようと、温かく抱きしめられようと胸の重さと痛みが無くなる訳ではない。
寧ろ、その温もりが邪魔だとさえ思う程。
「そうだ、今日はお前に良い知らせがあるのだよ」
「そうそう。貴女のお姉様がね……ロドリーがとても驚くべき提案をしてくれたのよ。ああ、なんて妹思いの優しい子でしょう」
(そんな風に言われた事なんて、なかったわ)
驚いたようなファルフェの様子に、夫婦は顔を見合わせて笑った。
「ロドリーは婚約を辞退したのだ。この伯爵家を継ぐのは、お前だ、ファルフェ。婚約者も、ジョルジュ殿が快く受け入れて下さった」
「……えっ……ファ……お姉様、が?」
「そうだぞ。ロドリーがお前を誉めていたよ。こっそりと領地経営の勉強をしていたそうだな?そんな弱い身体で、病と闘いながら、何て立派な娘なんだ……」
言いながら父は目頭を押さえる。
確かに魂の交換をしたから、ロドリーとして積み上げて来た知識は、あるのだ。
その理由を妹が先んじて父に説明して、婚約も正しく結び直して。
(でもそれで、あの子に何が残るのかしら?)
まるで自分の将来がどうなっていたかというように、その未来が気になった。
「そうしたら、お姉様はどうなってしまうのですか?」
震える声は可憐だ。
改めて自分がファルフェなのだと認識する。
「姉も妹もお互いを思いやるなんて、何て美しいのかしら」
「本当にな……ロドリーはもう一度淑女教育をやり直したいと言っていたよ。嫁に行くのであれば、領地の勉強よりもそちらの方が遥かに大事だからな。学んでいる間に、私の方で嫁ぎ先を探してやろうと思う。身体の弱い妹の為に、自分の婚約者を譲って身を引く慎ましくも気高い娘だ。評判になるだろう」
「ええ、ええあなた。優しくて美しい令嬢なら、引く手数多よ。何せあの子は賢いもの」
(目の前で褒められた事など、一度だって無かったわ)
思い出す限り、父や母に手放しで褒められたことはない。
目の前で生き生きと、彼らは妹を誉めているのだ。
(いつだって、出来て当然という顔をされていたのに、何故わたくしがファルフェになった途端にこんな話を聞かなくてはならないの)
自分がロドリーだったとしても、同じ事をしてくれましたか?と言ってしまいたかった。
けれど、それは喉の奥で鉛のように固まったまま言葉になる事はない。
真実はもう、話せないのだ。
でも、少なくとも妹は姉の為に、その婚約者を返したのだろう。
目の前の両親を差し出したように。
「さあ、では朝食の前にお散歩の時間よ、ファルフェ」
そう言って母が腕を差し出し、ファルフェは細い手をその腕に絡めて歩き出す。
ロドリーだった時に庭を二人で散策する母と妹が羨ましかった。
けれど。
足を一歩踏み出す度に、胸の苦しさが増す。
庭に出るまでにもう息切れと動悸に苛まれた。
(あの子は、こんな苦しさを味わいながら、笑っていたというの……?)
喘息、と言葉では知っていた。
咳が出る病気で、走ったりできない。
息切れがする。
呼吸困難になることもあると。
でもまるでそれは、重苦しい水の中にいるようだった。
呼吸をしているのに、苦しさが無くならない。
普通に歩いているだけなのに。
(ああ滑稽だわ……あの子は本当に何も要らなかったのね)
高価な衣装?そんなもの着ていく場所が無い。
素敵な宝飾品?着けるのさえ億劫だ。
可愛らしい人形?愛でるほど体力が無い。
新しい髪飾り《リボン》?髪を結ってもらうために起きているのさえ、辛い。
綺麗な絵本?読む気力すら涌かない。
「ほら、ファル、もうすぐ花が咲きそうよ。貴女が楽しみにしていたものね」
「……はい……」
返事を返すのがやっとだ。
(拷問に近い、こんな事でどうして笑っていられたの?私は何が、羨ましかったの?)
羨ましかった母娘の庭の散策は、体力作りだった。
寝台の上にだけいれば、段々と弱って耐えきれなくなってしまうから。
発作の無い日、発作の軽い日に必ず、母はファルフェを外に連れ出していたのだ。
苦しくても辛くても、それが母の愛だと知っていたから、ファルフェは笑顔でそれに従っていた。
外側から見たそれは、美しい光景。
でも内側から見れば、美しい地獄だった。
散策から帰り、冷たい水で喉を潤して寝台に積まれた枕に寄りかかると、少しだけ呼吸が楽に感じられた。
辛い思いをした落差からなのか、本当に回復したのかは分からない。
午後になるとジョルジュが父とともに現れて、喜色満面で姉の手を両手で握りしめた。
「君と婚約したよ、ファルフェ嬢。きっと、私が君を幸せにする」
「ジョルジュ様……ありがとう存じます」
微笑んだ、つもりだった。
けれどジョルジュは少しだけ違和感を感じた様に首を捻る。
「もしかして具合が悪いのかい?」
「はい、少し……」
「それは済まなかった。配慮が足りなかったね。さあ、もう休んで」
優しく寝かされるが、姉には分かっていた。
幾ら見た目が同じでも魂は違う。
妹の魂の入ったロドリーが優しく見えるように、今のファルフェは……。
「何で言ってくれなかったの?」
姉が呟いた言葉に、妹は不思議そうに答えた。
「言ったとしたら、お姉様は納得してくださいましたか?」
使用人達を下がらせて二人きりの部屋では、特に制約は無いらしい。
そして、返された言葉に姉は口篭もる。
納得しなかっただろう事は、自分でもよく分かっていた。
自分の物を奪っていく妹が、また我儘を言っているとしか思わなかっただろう。
そして、健康を引き換えにしても欲しいと願ったのはまぎれもなく、本人の意思だった。
「それと、お父様にもお伝えしたのですが、スコット様と婚約いたしました」
「……は……?」
姉の声に、妹は柔らかく微笑む。
「お姉様は、スコット様に愛されておいでだったのに、何故そんなに……」
それ以上妹は何も言わない。
自分だった時より、妹が中にいるロドリーは柔らかく綺麗だった。
「でも、スコットはわたくしの事が好きだったのよ……」
震える声で姉が言い、シーツをくしゃりと両手で掴む。
妹はそんな様子を見て頷いた。
「奪っても良いですよ。ジョルジュ様よりもスコット様の方が良いと言うのなら。でも、家の決定には逆らえないというのは、お姉様もご存知の筈です」
「だって、貴女は、何も欲しくないのでしょう!?」
切羽詰まった声で叫ばれて、妹はその言葉に首肯する。
「はい。欲しいものは頂いたので、ジョルジュ様もスコット様もお姉様のお好きなように。わたくしはお姉様が欲しいと仰るのなら、出来るだけ何でも差し上げますよ」
「だったら、スコットに会わせて……」
「会ったとしても、女神の制約で話す事は出来ませんけれど、それで良いのでしたら」
(会えばきっと分かってくれるわ)
妹は姉の心を見透かすように言う。
「万が一、お姉様だとわかったとしても、もうどうする事も出来ないのですよ。理由はご存知の筈です」
ぐっと姉は言葉に詰まる。
例えば、スコットが気づいたとしても、証明する手立てはない。
それに、嫁に出すのと婿を取るのでは話が全然違う。
ジョルジュとの婚約を解消するのはまず不可能だし、病気を理由に解消したとすれば、婿取りそのものが望めなくなる。
元通りに妹が家を継ぎ、ジョルジュと結ばれるとしても、侯爵家であるスコットの元へ病弱な身体で嫁ぐ事は難しい。
子供が望めないとしても、彼なら養子を取ると言ってくれるに違いない。
それでも。
何もかもが難しい。
「お姉様がどうしても嫌だと仰るのなら、ファルフェとして反対するだけで願いは叶うはずですよ。そうすればわたくしは、別の方に嫁ぐだけですから問題はありません」
「何で?……何で、そんなに何もかも捨ててしまえるの……」
「どんなに豪華に見えても檻は檻です。檻の外にいるお姉様が羨ましかった。でもお姉様はその鍵を渡してくれたんです。代わりに檻の中に入るって」
姉は何も言わなかった。
言えなかった。
目の前の妹は本当に邪気もなく、感謝しているのだ。
けれど、自分は……と考える。
健康だった時は、それを犠牲にしても愛が欲しいと愚痴を言い。
今は愛より健康を取り戻したいと不満をばら撒く。
見た目や病弱だからという状況だけではない、と気づいて涙が溢れた。
今ある物を見ていなかったのは、大事にしていなかったのは自分なのだと。
正式に婚約の申し込みに来たスコットを、両親もジョルジュも喜ばしく迎えた。
スコットが姉に注ぐ視線は、単なる幼馴染に向ける眼差しというよりは、ロドリーだった頃に散々愚痴を聞かせた我儘な妹への警戒心が見て取れる。
そして、婚約した妹への視線は、蕩けるように熱かった。
今はもう、かつての彼もそうだったのかどうかさえ、姉には分からない。
ただ目の前で、嬉しそうに微笑み合う姿が、目に焼き付けられていく。
「最近、ロドリーが美しくなったのは、きっと君のお陰だな、スコット」
「そう言ってもらえると嬉しいよ」
男二人が嬉しそうに笑みを交わし合う。
まるで二人して妹を讃えているように聞こえて、姉は耳を塞ぎたくなった。
「ところで、ベルート伯爵に提案があるのですが」
「何だね、スコット君」
正式に婚約を交わしたことで、夫婦同然となったロドリーの肩を抱いて、スコットはにこやかに言った。
「淑女教育についてですが、侯爵家の事についても共に学んで頂く方が良いと母が申しておりまして。出来ましたらすぐにでもロドリーをエヴァンス侯爵家に迎え入れたいと思うのです。勿論、教育にかかる資金や衣食住は全て侯爵家で負担させて頂きますので」
「……それは勿論、かまわないが……」
「はい、お父様。わたくしもそれで構いません」
妹が穏やかな笑顔で追従した事で、とんとん拍子に決まっていく。
姉が口を挟む理由も無い。
かつて、ロドリーだった頃に何度もスコットに言われていたのを思い出す。
『辛かったら何時でも逃げておいで』
物理的にも状況的にも無理だから、と聞き流していた言葉だ。
でも彼は、誠実に守り続けて来た。
今それが姉ではなく、妹に向けられている。
あれだけロドリーが文句を言っていた相手と婚約したのだと言えたのなら、どれだけ良いか。
でもそれは、口に出来ない言葉。
文字に記せない情報。
そして、それが魂の交換であり、運命の交換だったのだ。
(違和感は感じている、でしょうね)
淑女教育を受けるロドリーをスコットが遠くから見つめている。
優しさと、何かを探るような視線。
魂が入れ替わったなど、荒唐無稽な推察を出来るわけもない。
運命の女神の信仰があったとしても、実際にその御業を受けた者達は口に出来ないからだ。
以前姉が断じていたように「御伽噺」だから。
「君は……変わったな」
「そうかもしれませんね」
スコットの言葉に、ロドリーは素直に頷く。
変わったのは確かだ。
それも劇的に。
今は何もかも新鮮で楽しい。
厳しい教育も、身体の軽さに比べれば何という事もない。
「まるで、別人のようだ」
「もしも、お気に召さないのでしたら、式の前に仰ってくださいませね」
「いや、そういう意味では……」
口に手を当ててスコットは考え込む。
(何もかも違うけれど、一番違うのは……)
ロドリーは考えを巡らせて静かに口を開いた。
「もし貴方の優しさで誰かを救いたいのなら、今一番不幸なのは姉です」
「不幸?君の婚約者を奪って夫にする妹の何処が不幸だと言うんだ?」
むき出しの敵意を見せるスコットに、ロドリーは微笑む。
「本当ならわたくしが家を継いで、あの子の面倒を死ぬまで見る予定だったのです。でも、あの子は病がちの身体で、領主として立たねばなりませんから」
姉妹二人で選んだ道とはいえ、それは過酷な道となるだろう。
まして子供を作れないという事になれば、ベルート伯爵家の縁者の中から養子を見繕う事になり、ジョルジュの子供は生まれてくる事はない。
何重にも困難は降りかかる。
「それは、そうだが。彼女も望んだ事なのだろう?ならばその責任は負うべきだ」
「スコットがそう言うのなら、それが正しいですわ」
ロドリーの言葉にスコットは力強く頷き、ロドリーを優しく抱きしめる。
その体温を感じながら、ロドリーは考えた。
望んだのなら、責任は負うべき。
(だとしたらこの運命はもう、間違いではないわ)
思わぬところで答えを導き出されて、かつてファルフェだったロドリーは幸せそうに微笑んだ。
仮病、詐病なら理解出来るのですが、病気って軽重関わらず辛いものだと思うので、何か軽く考えすぎ?というものを目にしてしまうとうーんとなってしまう。喘息つらいですよ!筆者も昔苦しんだので、愛情!?んなもんより、この苦しさを何とかしてよぉおおぉ!ってなります。病気じゃなくても身体が辛いと大変ですよね。皆様もお身体にはお気をつけてくださいませ!




