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「これはね、比重の違うお酒を重い順に注いでいくと、混じり合わずに層になるんだ」

「すごいですね! 綺麗だし面白い!」

「ここのオーナーの必殺技。今日来てるって言ってたから、特別に頼んで作ってもらった」

「特別なカクテルなんですか?」

「バーテンダーの腕の見せ所だな。すごく神経使うし。だから気軽に頼むとバーテンダーに嫌われる可能性もあるという、危険なカクテルだよ」


 晃さんのおどけた声を聞きながら、目を輝かせてマジマジと眺める。

 本当に虹のようなカクテル。なんて素敵なんだろう! 飲んでみたい!


「これ、飲めるんですか? 飲めますよね?」

「そりゃお酒だからね。でも原液を重ねてるだけだから味もヘチマも無いよ? 観賞用のカクテルさ」

「でも飲んでみたいです! せっかくだから記念に、ぜひ!」


 これはもう、絶対に経験してみないと損! 


 あたしはストローをそっとグラスに差して、ワクワクしながら吸ってみた。

 するとズキーン! と原液の強烈な味が襲い掛かってくる。

 口全体はもちろんの事、ノドの奥まで一気にアルコールの容赦ない芳香が突き刺さった。


「うわ! ゲホッ! ゲホゲホッ!」

「ああ、ほらほら、お水お水」


 晃さんが差し出してくれたグラスの水を引ったくるように受け取り、慌ててゴクゴク一気飲み。

 ぶふううぅぅ~~~!

 大きくひとつ溜め息をついて、しみじみ実感する。


「うわぁ・・・・・・美味しくない!」

「ハハハ。だからそう言ったのに」

「だって、もったいないじゃないですか。せっかくそこにあるのに見てるだけなんて」

「うん。そうだね。もったいないよね?」


 晃さんの穏やかな声に、どこか真剣な色が混じる。

 あたしは、思わずメイクの事も忘れて晃さんの顔を真正面から見た。


「せっかくこんなに綺麗で素敵なものが目の前にあるんだから・・・俺も手を伸ばしてみたいよ」


 そう言って晃さんはストローに口をつけ、カクテルを吸った。

 そして「んー、やっぱり観賞用かな? でもこれ、気分いいな!」って言って笑った。

 あたしは彼のそんな笑顔を複雑な思いで見つめる。


 せっかく、そこにあるのに。

 こんなに近くに、手の届くところにちゃんとあるのに。

 あたしは・・・・・・鉄仮面を被りながらそれを眺めているだけだ。


 それがどんなに勿体ない、残念な事なのか。自分でも良く分かっている。

 今までノドから手が出るほどに欲していたものが、目の前にあるのに。

 でも・・・・・・。


 再び、自分の顔を晃さんから逸らした。

 

 真珠のように勇気を出して、一歩だけ進んでみたけれど。

 進んだ先に予想通りの高い壁があって、それを前にして呆けたように見上げている。


 こんなの、簡単に飛び越えられるわけがないじゃないの。

 走り高跳びの選手でもあるまいし、とてもじゃないけど飛び越えられやしない。

 どれだけ年季の入ったコンプレックスだと思ってるの?

 山よりもべらぼうに高く、海よりもドン底に深く、万里の長城よりも延々と遥かなのよ。


 崩れかけた鉄仮面が不安で恐ろしい。

 ほとんど病気の強烈なコンプレッックスがとても悲しくて、すごく恥ずかしくて、たまらなく嫌で。

 こんな顔、こんな自分を彼に見せたくないから隠したい。


 やっぱり無理だ。嫌われたく・・・ないの。怖いのよ・・・・・・・。


「宝石を縦に並べたみたいなカクテルだろ? これ、聡美さんに見せたかったんだ」


 明るい、優しい、穏やかな声。

 それに手を伸ばしたいのに伸ばせない、臆病なあたし。


「あの、ちょっと失礼します」


 そう断って席を立ち、逃げるようにお手洗いへ向かった。

 そして真っ先に鏡と向かい合い、自分の顔を眺める。


 テカッたオデコ。テカッた鼻の頭。毛穴も開いてきてる。酷い有り様としか言えない。

 それでも、昔から女友達はよく言ってくれてた。


『大丈夫よ。聡美が気にするほど崩れてなんかないわよ』


 そうなのかもしれない。多分、あたしが病的に気にしすぎている部分は絶対にあると思う。

 でも、もうそんな事が問題なんじゃない。

 これはあたしの内面の・・・ううん、今までの悲惨な人生の問題なんだ。


 そんな惨めで悲惨な人生を変えたくて、必死に被り続けてきた鉄仮面。

 やっと転機が訪れたのに、何よりもその鉄仮面が邪魔をしているなんて、いったいどんな皮肉なんだろう。


 手早く簡単なメイク直しを施し、あたしはお手洗いを出た。

 少しだけ取り戻した平穏な心で晃さんの顔を正面から見る事ができる。

 メイクを直した直後だから。


 そして、思う。


 あたしはずっとこのまま、鉄仮面を被ったままで彼と向き合うんだろうか?

 メイク崩れに常にビクビク怯えながら、彼と会い続けるんだろうか・・・・・・?


 しばらくふたりでグラスを傾け、緩やかな時間を過ごす。

 晃さんが門限を気にしてくれて、そろそろ帰ろうかという事になった。

 あたしの心を表すような、切ないジャズのメロディーを背にして店を出る。


 頭は忙しく働いてハッキリしていても、体は酔いに正直で、足元が少しフワフワした。


「ちょっと歩こう。酔い覚ましに」


 晃さんがそう誘ってくれて、あたしは戸惑いながらも頷く。

 そしてふたり肩を並べて深夜の街を歩いた。


 てっきりすぐにタクシーを拾って帰るかと思っていたのに。

 こんな事なら最後にもう一回ぜひメイク直しをしたかったな。


 路上で騒いでいるグループがいて、晃さんがそっとあたしの肩を抱き寄せ、そのグループから庇うような仕草をしてくれた。

 肩に回された彼の手。狭まる距離に胸がときめく。


 あたしを守ろうとしてくれる心遣いがとても嬉しくて・・・・・・。

 でも、直していない顔に接近されるのがとても不安で。

 この胸のドキドキが、喜びなのか恐怖なのか分からない。


 人通りが一瞬途切れて、ふたりきりになる。

 晃さんはあたしの肩に回した腕を、あれからずっと外そうとはしなかった。

 彼から漂う微かなアルコールの香り。ジャズバーの香り。そして彼自身の香り。

 あたしの中に入り込み、混じり合い、あたしの心を酔わせ始める。


 薄暗がりの中で、胸が・・・ドキドキして止まらない。


 フワフワと動く足。抱き寄せられた肩。暗がりだからメイク崩れもさほど気にならない。

 あたしは知らず知らず、甘えるように彼の肩にもたれ掛っていた。

 晃さんはそれに応えるように、優しくキュッと手に力を込める。


「聡美さん・・・・・・」


 甘い声で囁かれた。彼の歩みが止まり、つられてあたしの足も止まる。

 クィッと抱き寄せられ、あたしの片頬に彼の手が触れた。


 ・・・・・・え?


 そう思った時にはもう、彼の顔は真正面だった。

 顎を軽く持ち上げられ、真剣な熱を帯びた彼の目が近づいてくる。

 三十センチも無い至近距離に彼の顔が。

 あたしの頭が真っ白になり、体が固まった。


 キス・・・・・・される。


 真っ白な頭で、それだけは不思議にハッキリと理解できた。


 でもこんな時にどんな反応をすればいいのか、まったく分からない。

 彼の瞳。見慣れた整った顔立ち。目の前でハッキリとその唇があたしに近づいてくる。

 真っ白な頭に血がのぼり、ドンッと心臓が暴れ、ドッと血圧と体温が上昇する。


 どうすればいいの? ねぇ、どうすればいいの?

 これは現実?


 あ・・・・・・あたし、生まれて初めてキス・・・・・・。


 ・・・・・・・・・・・・!


 その時あたしの全身が恐怖で硬直する。

 大量の冷水を全身に一気にぶちまけられたような気がして、夢から現実に返った。

 体温!? 汗!? ・・・・・・


 鉄仮面が!!


 すぐそばの街灯があたし達を照らしていた。

 そのせいで、今まで薄暗がりでよく見えなかったものが見えるようになっている。


 つまりあたしの・・・・・・メイクの崩れた、この顔が!!


「嫌あぁっ!!!」


 悲鳴を上げながら思い切り晃さんの顔を手で押し退けた。

 彼がよろけて、腕があたしの体から離れる。

 あたしは無我夢中で駆け出し、彼から必死で逃げ出した。


 見られた! きっと見られてしまった!

 あたしの・・・・・・汚く崩れた鉄仮面の下の素顔を、晃さんに見られてしまった!


「聡美さん! 待って!」


 彼の声が追いかけてくる。

 それはあたしにとって恐れ以外のなにものでもなかった。


 逃げたい! 逃げたい! 一歩でも遠くへ逃げ去りたい!

 晃さんに、この顔を見られなくても済む場所まで!!


 タクシーのライトが近づいて来る。

 手をあげて止め、飛び込むようにシートに転がり込んだ。


「走って! 早く!」


 叫びながら手で顔を覆い隠す。

 視界の端に駆けてくる晃さんの姿が見えたけれど、タクシーが間一髪で走り出した。


「お客さん、あんた大丈夫か? あの男になんかされたのかい?」


 車を走らせながら運転手のおじさんが心配そうな声で聞いてきた。

 あたしは顔を両手で覆ったまま、首を横に振るだけ。


「このまま警察行くかい? ああいう男はな、黙ってたらつけあがる一方なんだぞ?」

「・・・・・・・・・・・・」

「オレにも年頃の娘がいるからさ。ひでえ男はな、許しちゃだめなんだよ」


(ひどい男・・・・・・)


 晃さん、どんな風に思ったろう。

 お酒に付き合って、素直に肩を抱かれて、甘える仕草で、しな垂れかかるようにして。

 なのにいざ、キスしようとすると悲鳴を上げて押し退けて逃げ出すなんて。

 これじゃどう見たって、あたしの方がよっぽどひどい女だ。


 不意にバッグの中のスマホが振動した。きっと晃さんだ。

 慌てふためいている様子が目に浮かぶ。どんなに驚いて心配しているだろう。

 申し訳ない気持ちが込み上げるけど、電話に出る勇気はさらさら無かった。


 それでもスマホは鳴り続ける。まるで晃さんに名前を呼ばれ続けているようで、あたしの心は激しく動揺した。


 やがて諦めたのか振動音が止まって、ホッと息を吐く。

 そして同時に涙がじわりと滲んできた。


 手を差し伸べてもらったのに・・・・・・その手を、自分で振り払ってしまった。


 なんでこんな事になってしまうんだろう。

 せっかく勇気を振り絞ったけれど、結局こんなもの? 

 あたしの勇気なんて、鉄仮面コンプレックスの前ではゴミみたいなものなの?

 なにをしたって無意味で、全く太刀打ちできない。まるでお姉ちゃんとあたしの力関係みたいに。


 しきりに警察行きを勧める運転手さんのタクシーに揺られ、自宅に着いた。

 丁寧にお礼を言って料金を払い、ただいまも言わずに家の中に入る。

 そして自分の部屋へ駈け込んで・・・・・・メイクも落とさず、泣いた。


 これからどうしよう? 晃さんとあたし、どうなってしまうの?

 ちゃんと謝らなきゃならない。失礼な態度をとってしまってごめんなさいって。


 でも、なんて説明する? 鉄仮面が崩れたので反射的に突き飛ばしちゃいましたって?

 意味不明でしょ? 説明にも何もなっていない。

 分かってもらう為には、晃さんに全部を説明しなければならない。


 ・・・・・・言うの? 全てを?


 親も親戚も、近所のおじさんおばさんも、教師も、大人達は皆揃って姉だけを見て、姉だけを讃えました。


 姉の隣に立っているあたしは、一度も顧みられた事はありません。


 いとこ達に取り囲まれて『聡美ちゃんは満幸ちゃんの絞りカス』って笑われ続けました。


 そして全ての男性には、利用価値のある道具としてしか見られませんでした。


 老若男女問わず、いつも聞こえてくる陰口は・・・・・・。


『あれが、あの槙原満幸の妹? なーんだ期待して損した』


 それを言わなきゃならないの? そんなミジメな事実を、自分の口で滔々と晃さんに?


 傷が深ければ深いほど、異物が大きければ大きいほど、それを吐き出すことは苦痛を伴う。

 トゲだらけの巨大な鉛の玉のように、吐こうにもノドを突き刺し、包もうにも方法が見つからない。

 それに晃さんに全てを告白するなら、どうしても告げなければならなくなる。


 全ての原因である、姉の存在を。

 完璧な美の持ち主である姉の存在を、美しいものをなにより愛する晃さんに教えるの? あたしの口から?


 そんなの・・・・・・できない・・・・・・。

 この鉄仮面をかなぐり捨てるなんて、あたしにはできない。


 ボロボロ涙を零しながら痛いほど思い知る。

 もう、おしまいだ。

 結局この壁は、あたしには越えられないんだ。

 あたしの人生は、姉の前では無力で無意味で、それはあたしがこの世に生まれた時から決まっていた事なんだ・・・・・・。


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