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第55話

台所に続く居間でテレビを見る振りをして、彼女の小さな後ろ姿を眺めていた。

それというのも、食事の用意をしながら、何度と無く溜め息を吐いて肩を落とすからだ。

今日は後期試験の結果が発表され、彼女も弟も無事に進級が決まったと聞いた。

松本君も大学に合格したらしいし、万々歳の筈だ。

なのに、鼻歌が出てもおかしくないこの状況で…何故溜め息?

夕食の焼肉の為の食材を用意し、切り分けた野菜と肉を冷蔵庫に入れ、彼女はテーブルの上に皿や箸を配膳した。

そして、廊下に置いてある丸椅子を抱えて来ると、冷蔵庫の横に置いてある古新聞の束の上に椅子を乗せ…その上によじ登った。

…何をしているんだろう…?

不安定な椅子が揺れるのを怯えながら立ち上がると、彼女は冷蔵庫の上の箱に手を伸ばし、身を反らせて箱を引いた。

「…危ないッ!!」

大きな箱を抱える様に倒れた彼女の頭を、床に激突する前に辛うじて庇う。

「…チビ助」

「…」

「お前…馬鹿だろう?」

「……済みません」

俺の膝の上で大きなホットプレートの箱を抱えたまま、彼女は俺を見上げて謝罪した。

「近くに居たんだ…何故頼まない」

「…」

「俺が近くにいて怪我をされる方が…迷惑なんだが」

「……申し訳…ありません」

俺の膝に頭を乗せたまま目を附せる彼女から、ホットプレートの入った箱を退けてやる。

「…どうした…どこか打ったか?」

「……いぇ」

白い顔をした彼女の眼鏡を上げ、下瞼を下げて確認する。

「…貧血か…足を曲げて、高くして寝ろ」

彼女の足を曲げさせ、頭から膝を外して床に寝かせた。

「……済みません」

弟が居たら、大騒ぎして部屋に運ぶんだろうが…俺には、そんな義理はないし……女は優しくすれば直ぐに付け上がる…距離を取る位の付き合いで十分だ。

彼女もそんなこちらの気持ちを察してか、決して馴れ合う様な態度を取っては来ない…だが…。

大体…この女との距離の取り方は難しい。

弟が嫁に決めた女で、食事や買い物等の世話もして貰っている…毎日短時間とはいえ顔を合わすが、初日に追っ払って以来同じ食卓を囲む事はない。

俺の事を嫌ってはいないと言っていたし、こちらが赤面する様な事をサラリと言ってのけるし…決して冷たい態度という訳ではないのだが…喋らない、笑わない、懐かないの無い無い尽くしの関係に、何となく…物足りなさを感じている自分が居るのだ。

「…チビ助」

「はい」

「何かあったのか?」

「…いいえ…」

一応挨拶もするし、必要な事は喋るが…それ以外、こちらが質問しなければ何も話さない。

「なら、溜め息なんか吐くな…耳障りだ」

「…申し訳ありません」

ホラ、又だ…こちらの八つ当たりも、全て呑み込んでしまう。

溜まらずハァと溜め息を吐くと、彼女はノロノロと起き上がり冷蔵庫に背中を預け、白い顔のままで怯えた様な眼差しを寄越す。

「…何か…不快にさせてしまいましたか?」

「…いゃ…そんな調子で、よく要と恋仲になったと思っただけだ」

「……済みません」

「口を開けば、謝罪の言葉しか出て来ない」

「…和賀さんにも…以前、同じ様な事を言われました」

「だろうな。要は、俺よりストレートだ」

「…」

「それに、その『和賀さん』と言うのも、何とかならないのか?」

「ぇ?」

「言って置くが、この家の住人は全員『和賀』姓だ。他の人間は名前で呼ぶのに、要だけ何で姓で呼んでいるんだ?」

「…済みません」

「俺に謝られても困る」

「和賀さんの…要さんの事は、最初から姓で呼んでいましたから…」

「…」

「他の方々に話す時には、『要さん』とお呼びしたりしているのですが…ご本人には……その…言い辛くて…」

「…要も、気の毒にな」

「そういう物なんでしょうか?」

「何が?」

「…いぇ…以前、他人行儀だと言われたもので…」

何だ…一体?

俯いたまま赤面する彼女の初な反応を見て、俺は内心ほくそ笑んだ。

「要からは、愛称で呼ばれてるだろう」

「…はい」

「それに、要が結婚すると言っている位だ。寝てるんだろう…お前逹?」

「…」

白かった顔が、首筋迄赤くなる…ヤカンを置いたら、湯が沸きそうだ。

「何かあるなら、相談に乗ってやる」

ニヤニヤ笑いながらそう言ってやると、彼女は俯いていた顔を上げ目を輝かせた。

「本当ですか!?」

「あぁ…何でも言ってみろ」

「…あの…」

「何だ?」

「核さんの…夢って何ですか?」

「はぁ!?」

この場面で、この状況で…何故そんな質問が飛び出すのか?

だが、目の前の女からは真剣な眼差しが送られる…からかいの質問ではないという事か…。

「…何故、そんな事を聞きたがる?」

「将来の事を…少し考えてまして…」

「要の嫁になるんじゃ…あぁ…そう言えば、答えを貰ってないと言っていたな…」

「…」

「結婚する積もりはないのか?」

「いぇ…そうではなくて……そんな先の事は…まだ、決められないというか…」

「…自分の逃げ道を、作って置くという事か」

「私の気持ちは、変わりません!!……でも…」

「…要を疑ってるのか?」

「この先何年も…同じ様に想って頂ける自信がないだけです。私なんかより、もっと素敵な方との出会いがあるかも知れませんし…要さんの足枷になりたくないだけです」

「そんな事を言っていたら、結婚なんて出来ないだろう?」

「元々…そういう事は…考えていませんでしたから。私は自分の目標の為に…1人で生きて行く為に…大学に入ったんです」

成る程…これは危うい…弟が彼女を縛り付けたがる筈だ…。

「お前、俺にどんな言葉を期待している?」

「忌憚のないご意見を…」

「要との将来の事を俺に聞くのは、お門違いだ。そういった事は、2人で相談するべき話だろう?」

「…」

「で、俺の夢と…どう関わる?」

「…どうやって、今のご職業に決められたのかと思いまして…」

「何だ…そんな事か…。俺は学生時代に腰を痛めた…だから、プロになれなかった…それだけの話だ」

「…今のお仕事で、何かやって見たい事があったのでしょうか?」

「別に…強いて言うなら、給料と待遇が良かっただけだ」

「…」

「何だ…お前も、ウチの大学の精神っていうのに囚われてる口か?」

「え?」

「あれだ…『為せば成る、為さねば成らぬ何事も、成らぬは人の為さぬなりけり』というヤツだ。実現が不可能に見える事でも、強い意志でやり通せば必ず成就出来るなんて…本気で思ってるんじゃないだろうな?」

「…」

「自分の夢をそのまま職業に出来る奴なんて、そうそう居るもんじゃない。海岸でダイヤモンドを探す様な物だ。与えられた仕事を熟し、対価を得る為に身を粉にして働く事に、何か偏見でもあるのか?そこで新たに、やり甲斐や生き甲斐を見付ければいい。何ら恥じ入る事はないと思うが?」

「…確かに、そうですね」

「お前の夢は?」

「…それは…もう、叶いました」

「え?…ぁ、目標って言ったのか…それは?」

「…自分の躰の為に、理学療法士の資格を取る事と…養護教諭になって…1人で生活出来る事を証明したかったんです」

「十分、実現可能だと思うが…何か、問題があるのか?」

「1人で…生きて行く為に……必要な事だから…決めたんです。私には、普通のOLの様な職業に就けるとは思えませんし、不特定多数の方々と接触する事も苦手です。だからといって、一般の教師の様に人の前に立つなんて…考えられませんし…」

「だから、養護教諭?」

「…それ位しか、思い付かなかったんです」

「成る程」

「ですが…それが、本当に自分がやりたい職業なのかと言われると…自信がありません」

「…もう少し、考えて大学を選んだ方が良かったんじゃないか?チビ助なら、研究者とかの方が合っていたかもな?」

「でも…理学療法士の資格は…自分が生きる為に必要な知識でしたので…」

「成る程…だが、一体お前は何がやって見たいんだ?」

「……わかりません」

「え?」

「…わからないんです…」

「何が好きなんだ?」

「…何も…無いんです…」

「……資格を取るなら、理学療法士になればいいんじゃないのか?」

「不特定多数の方々に接する仕事なんて…考えられません」

「…接客は、無理そうだからな…でも、店でバイトしてたんじゃないのか?」

「接客はしていません。厨房で洗い物をしていました」

「…だが、お前…今から2年だろう?この1年でゆっくり将来の事も含めて考えても、遅くないんじゃないか?」

「…それが…」

「何だ?」

ハァと深い溜め息を吐いて項垂れた彼女は、自分のトレーナーの裾を弄って黙り込む。

「要が居ない時に相談するという事は…アイツに聞かせたくない話なんだな?」

「……はい…」

「何なんだ?言ってみろ」

「……実は…今日、学長に呼び出されました」

「あぁ…首席だったそうだな?誉められたのか?」

「まぁ…そうなんですが…」

「何か言われたのか?」

「……留学を…しろと…言われました」

「は?」

「今度、カリフォルニアの大学と姉妹校になるそうで…交換留学生として……アメリカに行けと…」

「…」

「他の教授や、各部活から推薦される方もいらっしゃったそうですが…何故か、私に白羽の矢が当たって…」

「…名誉な事じゃないか…期間は?短期なのか?」

「いぇ……最低でも2年だと…あちらで、卒業しても構わないと…言われました」

「…」

「アメリカで運動を勉強したい方々も沢山居られる様です。…私は、運動も出来ないと申し上げたんですが…自分の専門の勉強をして貰って構わないと言って下さって…」

「…質問していいか?」

「何でしょう?」

「その話の、どこに問題がある?」

「え?」

「学長は、お前の実力を認めて留学を推薦してくれたんだろう?」

「私は…そんな事の為に、頑張って勉強したんじゃないです!」

「…」

「留年する訳には、いかなかったから…だから、要さんや和賀家の皆さんにご迷惑掛けながら、試験も課題も…頑張ったのに…」

「行きたくないのか?」

「ありませんっ!!…アメリカなんかに行っても、やりたい勉強なんてないし…理学療法士の資格も、養護教諭の資格も取れないし…」

「…」

「何より……折角、要さんが…イタリアにも長野にも行かなくてもいいように……父を説得してくれたのに…」

「それは…ウチの弟と離れたくない…って事だな?」

「でも…それって…」

「何だ?」

「…要さんに、依存している事になりませんか?」

「はぁ?」

「確かに…今、要さんを不安にさせる訳にはいかないんです!今は…安心して頂かないと…又、おかしくなってしまわれる…」

「あぁ…時々、夜中に吼えてる…アレか?」

「私の事で、ずっと心配を掛けて不安にしてしまったからなんです。だから、今は知らせる訳にはいかなくて…。でも、要さんに依存する訳にはいかないから…だったら、私がアメリカに行った方がいいのかと思って…」

「お前は、行きたいのか…行きたくないのか…どっちなんだ?」

「…どうすれば、いいのでしょう?」

「お前の気持ちだ!!どっちなんだ!?」

「……私は…行きたくない…」

「なら、断ればいい」

「でも…学長は、その為に出席日数が足りていない私に、後期試験の資格を与えようと…各教授を説得されたんです……それなのに、断ってしまって…大丈夫なんでしょうか?」

「学長には、何と言って来たんだ?」

「少し…考えさせて頂きたいと…」

「何と言っていた?」

「…色好い返事を…期待していると…」

「そうか」

「私は…少しでも自分の将来の為の選択肢を増やせる様に…勉強して来たんです。でも…成績が良い為に、こんな事になるなんて……思いもしなかった…」

「…」

「高校時代にTOEFLを受けたのも、父の仕事の関係で将来留学するかもしれないからと、父に言われたからです!…今更…その時の成績を持ち出されても…」

そう言って、彼女は悔しそうに唇を噛み、鼻を啜った。

「わかった、わかった…何かいい方法を考えてやるから…」

「…ありがとう…ございます」

「要約すると、学長に留学を勧められたが、お前は行きたくない。で、断っていいかわからず、グダグダ悩んでいる…そういう事だな?」

「…はぃ」

スンスンと鼻を鳴らして頷く彼女の頭を、俺はポカリと殴った。

「それにしてもなチビ助……お前、説明下手過ぎだ!」

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