第41話
「川沿いに行け!!つり橋の…先に!」
喘ぐ様な息で典子の父親が叫ぶのを聞きながら、俺と井手さんは先を急いだ。
「大丈夫か、和賀!?」
「…何…とか…」
走る振動が伝わる度に胸と肩が軋み、肺は空気を求めて痛む。
それでも、足と気持ちは堰を切った様に先へ先へと追い立てる。
ようやく人影を見付けた時、後ろ手に縛られた松本にナイフを突き付ける花村栄子を見て、俺はそのまま突進し彼女を突き飛ばした。
「浩一、無事かっ!?」
「…俺は平気だ」
「滝川ぁ!!」
「来るなよ、和賀…近付いたら、彼女の首をへし折るぞ?」
大木を背に、滝川は典子の背後から腕を回して首を締め上げる。
「馬鹿な事は止めろ、滝川…」
松本の腕に巻かれた紐を解きながら、井手さんが滝川に呼び掛けた。
「コーチ、宇佐美先生は?」
「…私は…ここだ、智輝君!」
「ようやく役者が揃った様ですね…思い出して頂けましたか、先生?」
「…智輝君…君は、ずっと私を恨んでいたのか?」
フッと滝川が笑みを漏らし、首に回していた腕を解きながら、典子の着ているコートをスルリと脱がした。
「僕はね、先生…貴方に憧れていましたよ。病弱だった僕の父は、物心ついた時からずっと入院していて、僕は父と一緒に遊んだり出掛けたりした事はなかった。先生は少し怖い感じの人だと思いましたけど、父を亡くしてから笑わなかった母が、貴方と会っている時はいつも笑っていた…ノンちゃんも可愛かったし…僕は理想の家族を手に入れる事が出来ると思っていました」
「…それは」
「あの日…向こうの芝生で花見をしましたね。皆で母の作った弁当を食べて、僕はノンちゃんと一緒に遊びに出た。遊具で遊んで、喉が渇いて…芝生に戻ったら…」
「チューしてたんだよ!」
典子の明るい声と、楽しそうな笑い声が響いた。
「お父さんとトモ君の叔母ちゃんが、チューしてるの見ちゃったんだよね、トモ君!」
「…そうだね…あの時も、君はそう言ってはしゃいでいた。でも僕は…その時初めて、母が自分から奪われて、違う男の物になる事を自覚したんだ」
「…」
「だけど、母は貴方の物になる事を望んでいたし、僕も家族が欲しかった。だから、僕だけの…僕だけが守って上げられる存在が…欲しくて…」
「だから、ノンちゃんの事、幸せにして上げるって言ったの?」
「…そうだよ」
「だから、チューしようとしたの?」
「…そうだね」
「じゃあ…ノンちゃんが嫌って言ったから、あそこからドンって落としたの?」
そう言って、典子は真っ直ぐ近くの土手を指差した。
「何だとっ!?滝川…テメェだったのかッ!!」
吼える俺を無視して、滝川は泣き出しそうな悲しい笑みを浮かべ、スルスルと典子の首筋に手を這わす。
「やっぱり…覚えてたんだね…」
「トモ君、『お前なんて嫌いだ』って言ったよ?…ノンちゃん、悲しくて痛くて、いっぱい泣いた…トモ君の事、いっぱい呼んだのに…トモ君走って行っちゃった」
「…」
「トモ君、どうしてノンちゃんの事落としたの?」
「…僕は…悲しかったんだよ…きっと……そして、自分のしでかした事に…絶望したんだ…」
「子供っぽい焼きもち妬いて、典子に当たっただけじゃねぇかっ!?」
「あぁ、そうさ!!僕は子供だった…たった6歳の子供だったんだっ!!」
ギリギリと歯を食い縛りながら、滝川は俺に燃える様な瞳を向けた。
「あんな高さで落ちた所で…足を挫く位だと思った……まさか…あんな事になるなんて…思っても見なかったんだ!!」
滝川は俺から典子の父親に視線を移し、殆ど叫ぶ様に問いただした。
「母は、必死にノンちゃんの看病をしてた!自分の娘になるノンちゃんを、献身的に看病していた筈だ!!…なのに…貴方は、ノンちゃんの怪我の事で心が一杯になって……母を捨てた」
「違う、智輝君!」
「違わないだろ!?あの日…帰って来た母は、泣いて泣いて…僕に何度も謝った!!僕はノンちゃんの見舞いにも行けず…謝る事も出来ず……あれからね、母は変わったよ、先生。がむしゃらに働いて、仕事にのめり込んで行った。周囲の人が心配して持って来る見合い話も、全て断り続けた…余程、先生の事が好きだったんだ…」
「だけど、お前のお袋さん、金持ちと結婚出来て幸せだったんじゃねぇのか?」
「幸せ?あれが?滝川の家が母を後妻に選んだのは、病気で倒れた先代の面倒を見させたかったからだ!母は死ぬ迄、奴等に看護婦としてしか扱って貰えなかった!!」
「…里子さん、亡くなったのか!?」
「そうですよ、先生…去年、急に倒れて……あっという間でした。それでも奴等、誰1人見舞いにも来なかった!世間体を気にして、葬式だけ立派でしたけどね!?」
「…そうか」
「僕は…滝川の家で常に余所者として扱われた。それでも滝川姓を名乗るからには、何でも一流じゃないと許して貰えなかったんですよ。必死でしたよ…勉強も、スポーツも、立ち居振舞いも…そうじゃなきゃ、母が責められる。僕は、母と2人の居場所を繋ぎ留める為に必死だった」
「…」
「幼い頃の印象って、強烈な物ですね?貴方に連れられて、当時の最高レベルのバレーを見学させて貰った…僕がバレーを始めた時、母は喜んでくれましたよ。母が亡くなって…僕にはバレーしかなくなった。そんな時ですよ…貴方とノンちゃんが、僕の目の前に再び現れた」
滝川は片手で典子の首を掴んだまま、愛おしそうに典子の頬に手を添えた。
「最初は、別人だと思ったよ…容姿はあの頃の可愛いままなのに…君は、すっかり変わってしまっていたからね。でも、僕の可愛いノンちゃんに違いなかった。…なのに…何故だい?何故、和賀なんかと恋仲になってるんだい?」
「滝川…お前も花村さんと一緒だ」
俺の隣に立った松本が、滝川に声を掛けた。
「お前も、ウサギちゃんへの接し方を間違えたんだ。この2人は最初、最悪な出会い方をした。もし、お前が最初からウサギちゃんに優しく接していたなら、ウサギちゃんはお前を選んでいたかもしれない!」
「あんなに手荒にしか扱われてなかったのに…和賀にいつ騙されんだい、ノンちゃん?」
「人聞きの悪い事言ってんじゃねぇぞ!ノンが俺に惚れて来たんだからな!?」
「…その呼び方は止めろ!!ノンちゃんと呼んでいいのは…僕だけだっ!!」
「煩せぇ!!俺の女をどう呼ぼうが、俺の勝手だ!!」
「…和賀、お前…ノンちゃんと結婚の約束したって…本当か?」
「それがどうした!?先生だって承知してる話だ!!」
「…渡さない…彼女は、僕が連れて行く……僕がこの手で…葬ってやる!」
「止めろ!!止めてくれ、智輝君!!」
飛び出そうとした典子の父親を止めたのは、再びナイフを持ち典子の背後で皆を睨み付けた花村栄子だった。
「栄子、栄子ッ!!何してるの、貴女!?」
「止めなさい、栄子!お前、どういう積りだ!?」
背後から悲鳴に近い声が掛かり、俺達の隣に息を上げた玉置と、花村栄子の両親と覚しき人物が座り込み、花村の名前を呼び掛ける。
「煩い、煩いッ!!今迄放って置いた癖にっ!今更何よッ!!」
振り回すナイフが、典子の腕を切り裂き、血飛沫が飛ぶ。
「キャアッ!!典子!?」
「ノンッ!!」
玉置と共に叫ぶ俺に、典子はこちらを振り向き平然と言った。
「ノンちゃんは、平気だよ。痛くないもん」
「えっ!?」
「要…ウサギちゃん、痛覚を切り離してる…怖いという感情も、多分…」
「それって、かなり危ねぇんじゃ…」
「ねぇ…トモ君は、どうしたいの?」
ざわ付くギャラリーを尻目に典子が滝川に尋ねた。
「その前に聞かせて、ノンちゃん…何故、和賀だったんだい?何故僕じゃいけなかったのか…」
「だって…」
「どうして?」
「お兄ちゃんは、笑わなかったから…」
「え?何?どういう事!?」
怪訝な顔をする滝川に、俺は口を添えた。
「ノンは…人に笑い掛けられるのが苦手なんだ。俺はいつも仏頂面だから…だから、ノンは俺を選んだ。それだけの話だ」
「それだけじゃないもん!」
「…」
「笑わないけど、凄く優しいし…嘘付かないからだもん!それに…凄く綺麗で格好良くて…」
こんな所で…公衆の面前で…明け透けに告白なんてしないでくれ。
それでなくても、今の滝川は何をしでかすかわからない…典子の腕から流れる血を見詰めながら、俺は焦っていた。
「…成る程…笑わないからか……そりゃ傑作だ!!」
一頻り笑うと、滝川は典子に向かって言った。
「僕はね…ノンちゃんのお父さんに、復讐したいんだよ……母を捨てた宇佐美先生に…僕と同じ悲しみを味あわせたいんだよ…」
「待ってくれ、智輝君!里子さんと…君のお母さんとの再婚を断ったのは、ちゃんと理由があっての事だった。里子さんとも話し合って、納得して出した結論だったんだ!」
「嘘だ!!今更、言い訳なんて止してくれ!!」
「本当なんだっ!!…里子さんも私も…典子の事故の原因が……君である事に気付いていた…」
「何だって!?」
「私は、典子から聞いた。あの時ずっと、典子は君の名前を呼んでいた。何故、どうしてと繰り返して泣いていた。里子さんも、君の様子を見て…察していたんだ」
「…嘘だ」
「里子さんは、本当に献身的に典子の面倒を見てくれた。一生掛けて償って行くと言ってくれた。…だが、それで本当に幸せになれるのか…私達は、長い時間を掛けて話し合った」
「…」
「最終的な結論を出したのは私だ。典子に一生残る障害を負わせた君を…息子として、典子同様に愛してやる自信が無いと…里子さんに告げた。彼女は、納得してくれたよ」
「……それじゃ…僕の為に…諦めたって言うんですか!?」
「だから…典子に責任はない……手に掛けるなら私を…」
滝川の視線を真正面から受けた典子は、再び滝川に尋ねた。
「トモ君は、どうしたいの?」
「…ノンちゃん……僕と一緒に……死んでくれる?」
真っ直ぐ見上げた典子の口が動いた時、俺は叫ぶと同時に駆け出していた。
「駄目だ!!ノンッ!!」
滝川から彼女を奪い返そうと腕を引くと同時に、俺の横から花村栄子の叫ぶ声が聞こえた。
「そんな事、させないッ!!」
典子を狙うと思った俺は、典子の躰を抱いたまま倒れ込んだ…しかし、呻き声は頭上から聞こえて来たのだ。
何度もナイフが肉を刺す音と、女の狂ったような叫び声。
「滝川ッ!!」
「栄子ッ!!」
腕の中の典子が、ヒッと息を呑む…見上げた滝川は、腹を血塗れにしながら、刺さったナイフを自分で引き抜いた。
「……ノン…ちゃ…ん…」
よろめく足で近付く滝川から典子を守ろうと、俺は立ち上がって滝川の腕を掴んだ。
「…どけ…和賀…」
そう言って滝川が俺の左肩を握る。
激痛が全身を覆い、目の前が白くなり…俺は地面に膝を着いた。
「止めろ!!滝川!」
松本が滝川を羽交い締めしたが、滝川は渾身の力で振り払い、ナイフを振り回す。
少し離れた場所では、相変わらず花村栄子が叫んでいた。
「嫌よッ!!渡さないっ!!智輝さんと結ばれるのは、私よっ!!」
「止めて、浩一!!危ないわッ!!」
ナイフを振り回す滝川を睨み付け、玉置もヒステリックに叫んでいた。
「……止めて、滝川さん」
滝川から庇う様に俺の前に立ちはだかる、小さな影が静かに言葉を紡ぐ。
「…これ以上…誰も傷付けないで」
「ノン…ちゃん」
「…ごめんなさい、滝川さん……私、一緒には逝けません。私の躰は…もう和賀さんに上げてしまったから…粗末には扱えないんです」
「…ノン…ちゃん…僕は…怖かった……君が事故の事を…僕が君を…突き落とした事を…誰かに話すんじゃないか…不安で…」
「私…忘れてました。滝川さんの事も、どこかで会った事があるのかもしれないと思ったけど…トモ君だなんて、思いもしなかった。…ごめんなさい…気付かなくて…」
「…ノ…ン…ちゃん」
ドサリと崩れ落ちる滝川の躰を支え、典子は素早くナイフを取り上げて放り投げると、父親に応急処置をする様に呼び掛けた。
「救急車は呼んだ…誘導して来る」
そう言って井手さんが駆け出すと、典子は振り向き、うずくまる俺を優しく抱いた。
「大丈夫ですか?無茶しないで下さい」
「ノン…お前…」
「済みません、私の為に…」
「違う!お前は、何も悪くねぇッ!!」
「でも…」
そう言った途端、典子の躰が俺の胸に倒れ掛かって来た。
典子の背中には、ぐちゃぐちゃに泣いている花村栄子が覆い被さっている。
「…ゴメン…やっぱり私…貴女の事が…どうしても、許せないの…」
そう言って、花村栄子は典子の背中で号泣した。




