アルマ、誓う
立派な白い石碑に刻まれたかつての自分の名を、アルマは不思議な気持ちで眺めた。
本来ならばあり得ない体験。
しかし事実として自分は今ここに居て。
同時に、改めて実感する。
――レスティア・マクミランは、確かに死んだ人間なのだと。
その事実を胸に刻み、しばらくじっと石碑を見つめていたアルマだったが、ある程度満足したところで横に立つディートハルトに話しかけようと彼の方を仰ぎ見た。
普段のディートハルトならばすぐにでも視線が返ってくるところだが、今回ばかりはそうはならず。彼はどこか悔いるような表情を浮かべながら静かに石碑へと目を落としている。
その立ち姿に声を掛けるのが躊躇われるほどの敬虔さを感じ、アルマがしばし言葉を忘れていると、
「……貴女に、伝えなければならないことがあります」
目線は石碑に向けたままのディートハルトが小さく声を零した。
彼らしくない態度に驚きつつも、アルマは努めて明るく「うん、聞くよ。なんでも言って?」と返す。
そこでようやくディートハルトは身体ごとこちらへと向き直り、そのタンザナイトの瞳にアルマを映した。
彼の言葉を待っている間、見晴らしのいい丘を吹き抜ける風の音だけが耳を撫ぜていく。
そうして無言のまま見つめ合っていると、
「――九年前のあの日」
ディートハルトが重々しく口を開いた。痛みを堪えるような、そんな表情で。
「第二騎士団第五騎兵隊に下った夜襲作戦命令は、本来ならば別の隊に言い渡される予定のものでした。それを直前になって捻じ曲げたのは……僕の父です」
あまりにも唐突な告白にアルマは思わず目を見張る。
そんなこちらの反応を予期していたのか、ディートハルトは焦ることなく淡々と続けた。
「父は僕だけは作戦から外し、第五騎兵隊を意図的に死地へと追いやりました。その目的は……レスティア様を僕の傍から排除するためです。つまり――」
「っ! ディー、待っ……」
それ以上は言わせてはいけないと、アルマが堪らず制止の声を上げる。
しかし、こちらの望みに反して彼は、
「――僕がいなければ貴女が死ぬことはなかった。僕の所為で……貴女は死んだんです」
残酷な真実を臆することなく口にした。それがまるで、自傷行為のように思えて。
だからアルマは一度目を伏せた後、ゆっくりと手を伸ばしてディートハルトの左腕をぎゅっと掴んだ。
そして後悔を色濃く宿す彼の瞳を下から覗き込み、告げる。
「もしそれが事実だったとしても、わたしはディーに逢えたことを後悔なんかしないよ」
それは紛れもないアルマの――レスティアの本心だった。
仮にディートハルトと出逢ったことが遠因で命を落としたのだとしても、その責がディートハルトにあるとは決して思わない。
レスティア・マクミランは騎士として職務を全うし、任務遂行と引き換えに命を散らした。ただそれだけのことだ。
あの作戦で命を落とした他の騎士たちも、ディートハルトを決して非難したりはしないだろう。
「逆に聞くけど、ディーはわたしと出逢ったこと……後悔してる?」
「……いいえ」
答えたディートハルトの表情は変わらず翳りを帯びている。
しかしそれでも彼は確かに首を横へと振った。自分の気持ちに嘘は吐けないと示すように。
「たとえ何度生まれ変わっても、僕は貴女だけを望みます。――貴女に出逢えたから、僕は生きる幸福を知りました」
そう言って、ディートハルトは今にも泣きそうな顔でくしゃりと笑った。冷徹な騎士公爵としてではなく、あの頃の、素直で優しい少年のように。
アルマはそんな彼を両腕で正面からぎゅうっと強く抱きしめる。
自分がいなくなってからの彼の九年以上の歳月を想うと、胸が張り裂けそうになる。
目の前の存在が、ただただ、愛しかった。
「……ディー、今度はわたしの話を聞いてくれる?」
トクトクと聞こえてくるディートハルトの心音に耳を傾けながら、内緒話をするようにそっと囁く。勿論です、という言葉がすぐさま返ってくるのに思わず笑みを零しながら、アルマはゆっくりと顔を上げた。
「今日ここに連れて来て貰った理由はね、誓いを立てたかったからなの」
「……誓い、ですか?」
「だって約束したでしょう? わたしはディーより先に死なないって。ずっと一緒に居るって」
そこまで言うと、アルマは腕から力を抜きそのまま三歩ほど後ろへと下がった。
そして困惑のまま立ち尽くすディートハルトに対し、ここまで持って来たある物――ダークブルーに金装飾が施された鞘に収まる西洋片手剣を、両手で持って捧げるように彼へ差し出す。
促されるままに受け取った彼に微笑んでから、
「――ディートハルト・アメルハウザー様」
その場で地面に片膝をつき、アルマは丁寧に想いを込めてその口上を述べた。
「わたしは生涯、貴方を唯一の主とし、決して変わらぬ心を捧げます。――お赦しいただけますか?」
眼前のディートハルトが驚きに息を呑んだ。
アルマが行なったのは正真正銘の騎士の誓いである。
リーンヘイムの騎士は、その生涯で一度だけ、己が唯一の主と認めた相手に自分の全てを捧げる誓いを立てることが赦されている。
決して裏切らず、命ある限り寄り添い続けることを宣誓する神聖な儀式。
ディートハルト自身も騎士であるがゆえに、その覚悟と重みは十分に理解しているだろう。
生前のレスティア・マクミランは騎士の誓いを行なわなかった。しかし、もし誓いを立てることがあったとしたら、きっとその相手は目の前にいる彼をおいて他にはいなかっただろう。
前世も今世も、己の唯一はディートハルトだけ。
これが今のアルマに出来る、精一杯の意思表示だった。
「……本当に、貴女には驚かされることばかりだ」
掠れた声でそう呟いて。ディートハルトは手にした剣を鞘から抜くと、頭を垂れたアルマの左肩に軽く当てる。そして、
「――――赦す」
短く、しかし力強く応じた。
これで儀式は完遂された。剣先が己の肩を離れたのを確認すると、アルマは立ち上がってスカートの裾を払った。乾いた地面だったので土汚れも特に目立たず内心でこっそりと安堵する。高価な服はまだまだ慣れない。
そこへ、剣を鞘に納めながらディートハルトがおもむろに尋ねてきた。
「ここまでしてくれたんですから、僕との婚姻も前向きに考えていただけるってことですよね?」
言葉だけをなぞれば戯れのようでもあるが、向けられた瞳は真剣そのものである。あまりにも露骨な距離の詰め方にアルマは思わず笑ってしまった。きっとこんなにも余裕のない彼を見ることが出来るのは、自分だけ。そのことが正直とても嬉しいと感じる。
「それについても実は考えてることがあって。わたし、騎士爵の叙爵を目指そうと思ってるの」
実はダグラスが騎士爵を賜ったと聞いたときから考えていたことだった。
孤児のアルマがディートハルトの隣を歩こうとするのならば、貴族になることはほぼ必須。
主な方法は二つで、一つは貴族家と養子縁組をすること。
そしてもう一つは、功績を上げて騎士爵を賜ることである。
無論、養子縁組の方が確実だし、後見につくのが大貴族であればある程、アルマへの風当たりは軽減されるだろう。逆に騎士爵は所詮、一代限りの名誉爵である。貴族の肩書としては大した価値はない。
けれど、アルマとしては自分の力で得られる方法を選びたかった。
少なくともその努力は必要だと思ったのだ。アルマはいつだって胸を張ってディートハルトの傍に居たいから。
「そもそも、わたしはまだ九歳だし。ディーとその……婚姻するにしたって、確実に六年以上は先になるでしょう? 十二歳になったら騎士団に入るつもりだし、出来るところまではやってみようかなって。ダメかな?」
若干の照れも含みつつ見上げながら小首を傾げれば、ディートハルトが非常に複雑そうな顔をする。彼は何か葛藤するように口もとに手を当ててしばし思案した後、
「……いくつかお願いがあります」
と切り出した。
「十八歳までに叙爵が叶わなかった場合、僕の選んだ貴族家と養子縁組をしていただきたいです。同時に婚姻も」
「なんで十八歳なの?」
「流石に三十を超えると周囲が煩そうなので。一応、跡継ぎのこともありますし」
さらりと告げられ、アルマは思わず赤面する。婚姻するということは、つまりそういうことも含んでいる。改めて声に出されると何というか面はゆい。
「わ、分かった……! 正直かなり厳しいけど頑張ってみる」
「アルマの実力ならそう不可能ではないと思いますよ。クラリスやグランツ卿は確実に後ろ盾になるでしょうし、ダグラスも力になるでしょうから」
その当然のような物言いにアルマは笑みを深めた。
ディートハルトは後ろ盾に彼自身を含めていない。それをアルマが望まないと理解しているから。
きっとディートハルトの一声があれば、アルマの叙爵など簡単に叶ってしまう。
だけどそれでは意味がないのだ。
「……ディー、ありがとう。わがままを赦してくれて」
「それを言うのはこちらの台詞です。僕は既に貴女から違えぬ誓いをいただきましたから」
風になびくアルマの髪にそっと触れながら、ディートハルトが微笑む。
もうその表情に翳りはない。
タンザナイトの瞳が幸せそうに細められるのを、アルマも同じ気持ちで見つめていた。




