ディートハルトの追憶(8)
王城へ向かう道すがら、雨は激しさを増すばかりだった。
水分を吸って重くなった外套を脱いで軽く絞り、王城内で働く使用人たちからタオルを借り受けたディートハルトは、最低限の身だしなみを整えるとすぐさま応接室への誘導を頼んだ。一刻も早くレスティアのもとへ戻りたい。ただそれだけを原動力として。
広大な王城内に複数ある応接室の内、通された先で待ち受けていた人物は二名。
一人は己も良く知る第二騎士団団長である老翁セルゲイ、そして――
「久しいな、ディートハルト」
「……父上」
誰あろう、父であるアメルハウザー公爵だった。悠々とソファーに腰かける二人は、ディートハルトに視線だけで向かい側の席に座るよう促す。
予期せぬ顔ぶれに内心では動揺しつつも、表面上は完全に取り繕ってみせたディートハルトは、
「火急の用件とお聞きしております。どうぞ本題を」
示された席に座すと、一切の無駄話を挟まず呼びつけられた真意を問うた。
そんな息子の態度を面白そうに観察しつつ、アメルハウザー公爵は口角を上げる。五十という年齢を間近にしても衰えるどころか精悍さを増す美貌。自分の顔立ちがこの男と似ていることを改めて突きつけられたような気がして、ディートハルトは生理的な不快感を覚える。
「おや、つれないな……二年ぶりの親子の再会だというのに会話を楽しむ余裕もないのか?」
「生憎と情勢がそれを赦さないのは父上も十分ご存知でしょう。非才の身なれど騎士の末席に加えていただいた手前、無駄に時間を浪費するなど愚の骨頂かと」
「ふむ、どうやらしばらく見ない間に口の滑りが達者にはなったようだな」
「……誉め言葉として受け取らせていただきます」
ディートハルトは表面上こそ苛立ちを隠しつつも、この男との茶番に付き合うことへの馬鹿らしさに辟易していた。助け船欲しさに横目でセルゲイ団長へと視線を走らせるが、彼は腰掛けた一人用のソファーから微動だにしない。ただただ遠い目で、こちらを見やるのみである。
ならばとディートハルトは自ら打って出た。
「父上もセルゲイ団長も、お忙しい身の上。なればこそ早急に御用件をお伺いしたく」
「……はぁ、それほどまでにあの女のもとに戻りたいのかディートハルトよ」
「――と、仰いますと?」
「惚けるな。お前がレスティア・マクミランを慕っているという話は有名だぞ」
舌打ちしたい気持ちをなんとか堪えて、ディートハルトは己に無理やり笑みを貼り付ける。
「あくまでも上司として尊敬しているだけですが、騎士団庁舎に戻りたいというのは事実です。いつ何時出撃命令が下るとも分からぬ状況ですから」
「自分が置いていかれることを危惧しているのか? むしろ戦地に赴かずに済むと幸運と思うべきところではないのか?」
「御冗談を。そのような精神で騎士団に所属出来る道理はありません。この長きに及ぶ戦争に勝利するために日々研鑽を積んできたのですから、その機会を奪われることを喜ぶ筈がないでしょう」
「ハッ……これまた随分と生意気な口を利くようになったものだ」
ディートハルトの淀みない言葉を、アメルハウザー公爵は鼻で笑った。
「それもこれも、レスティアとかいう女あってのものか。我が息子ながら単純であり、また滑稽ですらあるな」
「……先ほどから、父上が一体何を仰りたいのか理解しかねます。騎士団での素行を咎められるような覚えもありません。ましてやわざわざ私の顔を見に来たわけでもないでしょう? いい加減、話を進めてくれませんか?」
今度は苛立ちを隠さず、ディートハルトは眼前の父親に鋭い視線を送る。
すると、彼はわざとらしく肩を竦めたのちに、
「――ああ、用件はな。もう済んだ。お前をここに招喚した時点でな」
そう、どこか楽し気に宣った。瞬間、ディートハルトの背筋に寒気が奔る。思わず太ももの上に置いた両手をグッと握りしめた。
ここに来る前から続く嫌な予感は一向に消えない。それどころか増すばかりで、本音を言えば今すぐにでもここを飛び出して騎士団庁舎に、レスティアのもとに帰りたかった。
だが、その前にどうしても確認すべきことがある。
ディートハルトは理性を総動員して、淡々と問うべき言葉を紡いだ。
「……此度の招喚の目的は、私を第二騎士団ないし第五騎兵隊から引き離すこと、と捉えて相違ありませんか?」
「ほぉ! 安易に噛みつくかと思えば、なかなか自制心が育っているじゃないか。感心感心」
「お答えいただけないのであれば、質問先を変えます――セルゲイ団長」
ディートハルトは自分の父親との会話を打ち切り、沈黙を守るセルゲイへと水を向ける。
「お答えください。私は一体、何の作戦から外されたのですか?」
「……君は本当に賢い若者だ、ディートハルト」
どこか疲れを孕んだ声で、セルゲイは重い口を開いた。
「君が所属する第五騎兵隊は今夜、グラーツ渓谷に陣を敷いているクルーシア軍に奇襲をかけることが決まっている。作戦目標は敵指揮官バロール中将の首だ」
「なっ……!? 無謀です!! バロール中将といえばクルーシアが誇る英雄――そんな男をたった一小隊で討ち取れというのですか!?」
「確かに、勝算が高いとは言えまい。だが……我が第五騎兵隊であれば、可能性は十分だと騎士団上層部は判断したのだ。これは決定事項であり覆ることは決してない」
そう告げたセルゲイの表情は苦渋に満ちていた。
可能性は十分という言葉は所詮おためごかしだ。勢い付く敵国に対する牽制を兼ねた捨て駒の作戦。人員は最低限に留め、失敗しても大した痛手を負わず、成功すればそれこそ儲けもの。
これは、そういった類の命令だった。
ディートハルトは奥歯をギリギリと噛みしめながら、荒れ狂う心境を無理やり抑え込み必死に状況を整理する。
今ここで短絡的に騎士団へ戻ることは容易い。だが、それでは意味がない。今夜決行の作戦であるならば、既にレスティアたちはグラーツ渓谷へと出立しているだろう。よしんば、作戦行動開始までに合流が叶ったところで、自分一人の加勢で状況が好転すると信じられるほど、ディートハルトは楽観的ではなかった。
身内の贔屓目を抜きにしても第二騎士団第五騎兵隊は精鋭揃いである。
もしかしたら、彼らならば作戦を成功させられるかもしれない。
しかしそれは、生還を度外視した場合の話である。
生きて帰ることを前提としていない作戦。それでは駄目だ。第五騎兵隊が――レスティア・マクミランが死ぬことなど、絶対にあってはならない。
『……引き留めてごめんね。行ってらっしゃい、ディー』
数時間前に聞いた、レスティアの声を反芻する。
彼女はどんな気持ちで、自分と会話をしていたのだろう。
「……これで分かっただろう? ディートハルト、私に感謝するのだな。お前が生きていられるのは、私がわざわざお前を作戦から外すよう騎士団に掛け合ったからだ」
父親の無思慮な言葉がディートハルトの神経を逆撫でする。だが今は取り合う時間すら惜しい。
ディートハルトは口腔に感じた自分の血の味を無理やり飲み込み、セルゲイと再び向き合う。
「セルゲイ団長、第五騎兵隊を喪うことは我が騎士団にとって大いなる損失です。そして私は彼らならば作戦遂行も可能であると考えます。であれば、後は退路の確保さえ出来ればいい」
朝から降り続く雨により、視界は最悪だろう。そういう意味では奇襲を仕掛けるには絶好の機会であるとも言える。条件さえ揃っているのならば、第五騎兵隊はどんなに薄い可能性だろうと任務をやり遂げる。
「――第三騎兵隊のダグラス隊長と交渉する機会をください。土地勘と機動力に優れた彼らが第五騎兵隊の退路の確保に回れば、第五騎兵隊の生還確率は跳ね上がります」
セルゲイ団長の権限で動かせるのは、精々が一個小隊程度だろう。その中で最も交渉と実行可能性が高い相手を頭に思い描きながら、ディートハルトはセルゲイに決断を迫る。とにかく時間がない。
「ディートハルト、あまり我が儘を言うもんじゃない。お前のような若輩が作戦に異議を唱えるなど有り得んことだと分かっているだろう?」
「……それでも、私は第五騎兵隊の生存を諦めません。セルゲイ団長、どうか御裁可を」
ディートハルトは立ち上がり、深々と頭を下げた。確信がある。セルゲイ団長は揺れている。レスティアを筆頭に第五騎兵隊の騎士たちを喪わずに済むのであれば、それに越したことはない。それに、セルゲイ団長個人としても、レスティアのことは気に入っていたはずだ。
後方から退路の確保に専念する部隊を送るだけならば、リスクとしても十分に許容範囲。
幸いにも天候を味方に付けられている。夜半に雨という視界不良の中では敵も撤退するこちらを深追いして来ないだろう。ほんの僅かでいいのだ。敵の注意を第五騎兵隊から反らすことが出来れば。
己が心臓が早鐘を打つ中、ディートハルトは目を瞑り、言葉を待った。そして――
「……よかろう。第三騎兵隊との交渉を許可する。ただし、交渉が上手くいかなかった場合は潔く諦めることを条件としよう」
――こうして手繰り寄せた僅かな希望を必死で掴みながら、ディートハルトは父の呆れ交じりな嘲笑を背に応接室を後にした。それから最速で騎士団庁舎へと舞い戻り、第三騎兵隊の隊長を務めるダグラスに事情を説明。
彼との交渉が成立するまでに、それほど時間は掛からなかった。




