ディートハルトの追憶(7)
大変お待たせしてすみませんでした……!
残り数話、最後までお付き合いいただければ幸いです。
広い寝台の上に横たわり、腕の中で気を失うように眠りに落ちた少女を抱きしめながら、ディートハルトは目を閉じる。この温もりだけが、自分に生の実感をもたらす。ゆえに彼女を喪った九年間、ディートハルトは生ける屍のようなものだったのかもしれない。
否、屍というよりも亡霊だろうか。
彼女の遺した言葉に従って生きる亡霊。
それだけが自分の存在意義であったと、ディートハルトは述懐する。
――そして、レスティア・マクミランを喪った夜のことを、思い出す。
その日の天気は、朝から鬱屈とした雨に見舞われていた。
十二歳になったばかりのディートハルトは騎士団本部からの呼出を受け、珍しくも一人、第二騎士団を離れて王城まで足を運んでいた。
呼出の理由は騎士団庁舎内では知らされず、ただ緊急性の高い用件だと、その時には第五騎兵隊の隊長の任に就いていた直属の上司であるレスティアから直々に聞かされた。
突然のことに訝し気な顔でもしていたのだろう。軽く眉を顰めるディートハルトに対して、レスティアは少し困ったような曖昧な笑みを浮かべた。
「私も詳しい話は聞かされていないのだけれど、雰囲気的に悪い話ではなさそうだったから。もしかしたら、アメルハウザー公爵家絡みの話かも……」
「その可能性は薄いかと。父は僕に興味などないでしょうし」
「そっ……そんなわけないじゃない! ディーは公爵家の跡取りなんだし!」
「……僕が死んだところで代わりはいくらでも作れますから」
本心からそう告げているのが分かったのだろう。レスティアの表情がにわかに曇る。
「……それでも私は、ディーみたいな人が領主だったら嬉しいと思う。こんなに優秀で、優しい人が領主のもとでなら、私たちみたいな平民も安心して暮らせるもの」
「――レスティア様は、僕が公爵家を継ぐことをお望みですか?」
「え? 望みというか……ディーは実際にアメルハウザー公爵家の跡取りだし。それにきっといいご領主になるだろうなって」
キョトンとした顔で返すレスティアにディートハルトは思わず苦笑する。
今のディートハルトにとって公爵家の当主の座は何の魅力もない。むしろ枷ですらある。
何故ならディートハルトは、レスティア・マクミランを一人の女性として愛しているから。
元は末端貴族とはいえ現状平民である彼女を公爵家の嫡男である自分が娶る難しさは計り知れない。もし叶うのならば、市井に下って彼女と平民として生きる道を選びたいくらいだ。幸い、自分の能力値はそれなりに高いと自負している。
このまま一介の騎士として生きたって良い。彼女さえ隣に居てくれるならば。
両想いどころか告白すらしていない、もっと言えば男性として意識さえして貰っていない状態であることも理解している。しかし十二歳のディートハルトにとって、レスティア以外の女性を愛するという選択肢は失われて久しい。
もし恋に破れたとて、彼女以外と添い遂げるなど考えられない。
「ディー? どうしたの?」
「……いえ、少し考え事をしていました。問題ありません」
心配そうなレスティアに対し、ディートハルトは密かに溜息を吐く。
今考えるべきことは別のことだ。少なくとも戦時下においては自分はレスティアの部下である。
どちらにせよ色恋に現を抜かせるような余裕など自分にも彼女にもない。
「そう? じゃあ特に質問がなければ、この後すぐに王城に出頭してくれるかな? 遅くとも夕刻までには確実に着くようにって指示が出てるから」
「……他ならぬ貴女のご命令とあれば、もちろん従いますが。本当に、どのような用件か聞かされてはいないのですか?」
現在、騎士団内はかつてないほどの緊張感を孕んでいる。
というのも、半月ほど前から隣国との衝突が激化の一途を辿っており、先日には我が国が誇る第三騎士団の副団長が作戦中に非業の戦死を遂げたばかりだ。
それに加えて近々、大掛かりな作戦行動が予定されているという噂もある。となれば騎士団内でも精鋭揃いと評価される我が第五騎兵隊にも指令が下る可能性は高い。
そんな中で、自分だけが別行動を取らされることに、ディートハルトは形容しがたい違和感を覚えていた。
根拠はない。強いて言えば勘のようなものだ。
しかしどうしても嫌な予感が払拭出来ず、ディートハルトは真意を探るような眼差しをレスティアへと向ける。
もう、あれほどあった彼女との身長差はほとんどない。まだ数センチほどレスティアの方が高いものの、目線はほぼ合っている。いずれ追い抜くのも時間の問題だろう。
二年間での成長を感じる瞬間は、いつだってディートハルトを高揚させる。
大切に守られ、鍛え上げられてきた月日に報いられる時は近い。
今度は自分が、この手で彼女の背中を守る。そうするだけの力は、着実に身についている。
だからこそ、この局面でレスティアの傍を離れることに対する明確な理由が欲しかった。
しかし、返って来た答えは望むものではなく。
「――ごめん、私も本当に分からないの。少し心細いかもしれないけど、一緒に行ってあげることも出来ないから、ディー自身でしっかり確かめてきて」
レスティアはディートハルトの肩に手を添えながら、そうきっぱりと口にした。
困らせるのは本意ではない。ディートハルトも頷き返し、それならばさっさと用件を済ませて戻って来ようと頭を切り替える。
「では、すぐに出立します。済み次第戻りますのでご心配なさらず」
「……うん。雨脚が強くなってるから気を付けてね」
「はい、行ってまいります」
言って、颯爽と踵を返したディートハルトの背中に。
「――ディー」
レスティアの声が掛かる。
彼女を無視することなど頭にないディートハルトが素直に振り返れば、
「……背、大きくなったね。もう立派な大人の男の人みたい」
そんな、他愛のない、だからこそ場にそぐわない言葉を口にした。
「レスティア様?」
「ああ、ごめんね。なんだか急に変なこと言って。いつのまにか、こんなに大きくなってたんだなぁって……ちょっと驚いたっていうか、感慨深くなったっていうか」
レスティアはバツの悪そうな顔をしながら苦笑を漏らす。その様子に、ディートハルトの胸が不意に騒めく。言い知れぬ不安。その正体を突き止めたくて、ディートハルトが口を開きかけた時、
「さっきの質問だけど」
レスティアが機先を制した。
「私は、ディーには立派な公爵になって欲しいよ。この戦争は、終わった後の方がきっと大変だから……ディーがこの国の未来を担ってくれたら、私はすごく安心出来るから」
その言葉にディートハルトは瞠目する。
まるで先ほど脳裏に過った自分の浅はかな恋心を見透かされたような気がした。恋に殉じ、平民になる道など選ぶべきではないと。
同時に、己に課された役割を自覚すべきだとも。
貴族にしか出来ないことは確かにある。戦後、アメルハウザー公爵家の力はこの国の復興には不可欠だろう。
そして彼女が望むなら、この国を支える一柱となることだって厭わない。
「……分かりました。レスティア様のためにも、立派に務めは果たします」
「そんなに気を張らなくても、ディーなら大丈夫だよ。私が保証する」
言って、レスティアは目を細めた。酷く眩しいものを映すように。
そのシャンパンガーネットの瞳の色は、濡れたような淡い光を反射してキラキラと輝いていた。
「……引き留めてごめんね。行ってらっしゃい、ディー」
――それが、レスティア・マクミランと交わした最期の言葉だった。




