クラリスの喪失
今回はクラリス視点です。アルマ視点では分からなかったところの少し補足になります。
本筋に大きくは関わらないので興味のない方は飛ばしてもらっても大丈夫です。
次回からはまたアルマ視点に戻ります。
アメルハウザー公爵家の屋敷を出て、グランツ辺境伯家の馬車へと同乗する。
行先は王城。夜も更けた道路は人気もほとんどなく、車輪が地面を削る音と馬の蹄の音だけが規則的にクラリスの耳朶を叩いた。
車内に会話はない。ただ向かい側に座り沈痛な面持ちのまま俯いているグランツ辺境伯の姿を目に映しながら、クラリスは込み上げてくる後悔の念を必死に噛み殺していた。
結果だけ見れば目的であったヨルダン・ネッケの断罪は達成された。彼が表舞台に上がることは永遠にない。余罪まで追及された後に、然るべき裁きを受けることになるだろう。彼の魔の手に掛かり傷つき、命を落とした者たちもこれで少しは救われる筈だ。
――しかし、その代償として喪ったものもまた、取り返しがつかないものだった。
先ほどまで対峙していたディートハルトの表情を思い返す。
今回のことで一つ貸しだと彼は言った。しかし、クラリスには痛いほど分かってしまった。
彼の瞳は、今後自分を駒以上に見ることはないと克明に告げていた。利用価値がなくなれば切り捨てる程度の、代替可能な存在であると。
七年以上掛けて積み重ねてきた信頼関係は、たった一夜にして崩壊し消失した。
その事実がクラリスの心を激しく打ちのめす。
クラリスにとって、ディートハルトは本当に数少ない信頼のおける貴族男性だった。
女だからといって見下すことのない、ただ実力のみを評価する姿勢を貫く貴族男性はこの国にはあまりにも少ない。
そのことに辛酸を舐めてきた立場からすれば、ディートハルトとの付き合いは非常に貴重であり、またかけがえのないものだった。心の拠り所ですらあった。
恋愛感情は互いに存在しない。
だからこそ、クラリスは心からディートハルトを信じられた。
唯一無二の友として。よき相談相手として。時には商談相手として。
変わることのない関係でいられる安心感。しかしそんなものは幻想にすぎない。
先に裏切ったのは自分の方だ。だからこそ、修復は不可能なのだと絶望する。
もしヨルダンについて、最初から素直に助力を乞うていたならば結果は違っていただろうか?
これまでの経験則から何の利もなくディートハルトから一方的に協力を取り付けるのは難しいと判断したのはクラリス自身だ。
そこでアルマを巻き込んだのは偶然の巡り合わせによるもので決して狙ってやったわけではなかった。だが、それでもディートハルトを巻き込めるかもしれないと、僥倖だと感じたことも事実だった。
相手は子供だ。囮とするのは良心が痛む。しかし、所詮は平民。貴族令嬢を巻き込むよりもリスクは低い。
表向きは綺麗ごとばかり並べながらも、心の奥底でこんな風に思考してしまった事実は消せない。
そしてそれは、目の前で項垂れ続ける老人にも言えることだろう。
グランツ辺境伯家の次期当主と密かに目されていた十二歳の少年。
先の戦争でグランツ卿の息子は死に、家督を継ぐ者は孫の代へと持ち越された。
何かと目立つ姉エリーチカの陰に隠れていたその少年は、現当主グランツ卿が手塩にかけて教育を施している最中だと聞く。
社交界デビューはまだだが、見目も良く学業においても大変優秀だという噂はクラリスのところまで届くほどだ。
そんな後継者を代償として差し出せと、ディートハルトは命じたのだ。
逆らえば辺境伯家自体を取り潰すと宣言している以上、グランツ卿に選択肢はない。
まだ金銭や領地を要求された方が遥かにマシだっただろう。ディートハルトはそこを良く分かっている。人材こそが最大の財産であり、人を縛る上で効率的なものであると。
そしてディートハルトの真に恐ろしいところは、自分の傘下に属した者を軒並み取り込み、心酔させることだ。
彼は実力を正しく評価し、重用する。ゆえに優秀な人材であればある程、自分の能力を十全に理解し評価し使い倒してくれる主を好ましく思うのだ。
グランツ辺境伯の男孫も、そう遠くない未来にディートハルトへ恭順するだろう。
そうしてアメルハウザー公爵家はますます力を付けていくのだ。
誰もその流れを止めることは出来ない。
クラリスは馬車の窓から辛うじて覗く月を見つめながら、小さく嘆息する。
臣籍降下した自分は、これからは王家の庇護を離れて領地を治めていかなければならない。
だから悲嘆に暮れるのは今日限りだ。
明日からは為政者として、男社会に一人、孤独な戦いを挑んでいく。
ディートハルトの後ろ盾が一切期待出来なくなっても、それは変わらない。
だからせめて自分を赦してくれた彼女に恥じない者であろうと、クラリスは震える両手を強く強く、握りしめた。




