アルマ、対峙する(4)
今回はかなり激しく流血描写や暴力描写などがあります。
苦手な方はご注意ください。
無様にも絨毯に転がったヨルダンを息荒く見下ろしていたアルマは、そこで我に返って視線を咄嗟に上げた。
そう、この場の敵はヨルダン一人ではない。
急ぎミーシャの姿を捉えようとしたアルマだが、
「……まったく、予想外のことが多すぎます」
「っ!?」
相手の動きの方が早かった。
未だにベッドの上にいる自分に影が差す。大きく首を反らせば、無表情のままこちらを見下ろすミーシャと視線が絡み合った。次いで彼女の右手に握られた木の棒のようなもの――ヨルダンに折られた椅子の脚部分を見止め、反射的に距離を取ろうと下半身に力を入れる。
が、やはりミーシャの行動が先を行った。
彼女はアルマの足を左手で逃げられないように掴むと、
「動かないでください」
淡々と言い放つ。そして――
「……え?」
持っていた木の棒をベッドの上に無造作に置くと、アルマの足首を拘束している縄に手をかけた。
そして唐突に結び目を緩めようと手を動かし始める。
「え、な、なんで……っ!?」
混乱するアルマに、ミーシャは手を休めることなく視線だけ上目遣いに合わせると、そこでニコリと微笑んだ。
「申し訳ありません、アルマ様。こちらの不手際で危険な目に遭わせてしまいました」
「ど、どういうことですか!? 貴女は、いったい――」
「敵を騙すにはまず味方から、ということです。端的に言えば私は二重スパイのようなもの」
その言葉にアルマは絶句する。目まぐるしく変化する状況に脳の処理が追い付かない。
二重スパイ。
つまり先ほどまでの態度は演技であり、真に仕える主はヨルダンではないということか。
どこまで誰を、何を信用すればいいのか分からないが、それでも今のミーシャからは敵意や害意を感じない。それだけは確かだった。
さらに実際の行動として、彼女は自分の拘束を外そうとしている。
「……信じてもいいんですか?」
「信じていただけるならば。ちなみに貴女を巻き込んだ意図は、アメルハウザー閣下を動かすため。ですが、閣下が予想以上に素早く大規模に動かれたことで我々が立てた計画に支障が出たと思われます」
「ディー……トハルトさまを、動かす?」
「はい。ヨルダンを完膚なきまでに葬るため、我々はアメルハウザー閣下の後ろ盾が欲しかったのですよ。そうでなければ、ネッケ侯爵家の横槍でヨルダンが正当に裁かれない可能性がありましたから」
「……つまり、わたしは餌として利用された、ということでしょうか?」
眉を顰めながら口にしたアルマの雑な要約に、ミーシャは心底申し訳なさそうに頷き返す。
「当初の想定では、ここにはヨルダンの他にもう御一方、来られる予定でした。そして貴女とその方に対して危害を加えようとする現場を押さえ、確固たる証拠とする手筈だったのです」
ミーシャからの話を聞いても、今一つ全容は掴み切れない。
だが、ミーシャの本当の主はヨルダンを徹底的に潰したかった。それだけは理解できた。そして、そのために自分とディートハルトが利用されたということも。
正直、質問したいことは山ほどあるが、アルマはその中でも優先度の高いものを声に乗せる。
「……そもそもここは何処なんですか?」
「ああ、ここは王城内にある隠し部屋の一つで地下の――……ッ!!」
そこまで口にしたミーシャが突然、弾かれたように背後を振り返った。
アルマも釣られて視線を向ければ、
「っ……ぐぅ……き、さまぁ……!!」
そこには口の端から大量の血を流し、目を血走らせたヨルダンが立っている。
完璧に入れた一撃でも、子供の膂力では昏倒させるには至らなかったのだ。
ミーシャはベッドの上に置いていた木の棒を速やかに掴むと、僅かに焦りを滲ませながらヨルダンと睨み合う。
「大人しく寝ていればいいものを……しぶとい男」
「ふざけるなクソがあぁ!!! お前らは殺すッ!! 俺の手で縊り殺してやるッッ!!!!!」
そう叫ぶやいなや、ヨルダンはミーシャに対して一気に加速と突進をしてきた。対するミーシャは冷静に彼の動きを見定めると、木の棒でヨルダンの首の辺りを狙おうとする。
また気絶させることが目的だろう。
――だが、その判断は悪手だった。
一見して冷静さを欠いたように見えていたヨルダンは、その実ミーシャの打撃の軌道を的確に読み、身体を急停止させて紙一重でそれを避ける。そして体勢を崩した彼女の腹にその長い脚を利用した膝蹴りをお見舞いした。
ゴキッ、という鈍い音が室内に響いたのと、
「かはっ……!!??」
驚愕に目を見開いたミーシャが床に崩れ落ちたのは、ほぼ同時。
彼女の手から虚しく転がり落ちた木の棒が、絨毯の上で微かな音を立てる。
以前に聞いたダグラスの言葉に嘘はなかった。ヨルダン・ネッケの騎士としての実力は本物だと。
しかしそれは、今のアルマにとっては最悪の裏付けにしかならなかった。
アルマはなんとか足首の拘束だけでも解けないかと必死にもがく。だが、その努力が報われることはなく。視界の端にゴツゴツとした大きな男の右手が映った時には、ベッドに押し付けられる形でアルマの首は片手で簡単に締め上げられていた。
「ぐっ……っぅぁ……っ!」
苦しい。息が出来ない。しかし手も足も自由に動かせず碌な抵抗すら出来ない。
このままさらに力を加えられれば首の骨すら折られかねない恐怖と戦いながら、それでもアルマは必死に目を見開いた。
生理的な涙で濡れた瞳を向けながら、死への絶望に抗い、最後まで諦めないという意思だけは残すために。
そんなこちらを嘲笑うかのように、ヨルダンは自らの血で汚れた口もとを舌で舐めとりながら、空いていた左手で苦痛に歪むアルマの頬を愛でるように優しく撫でる。
「いい顔だなぁ……!! 本当はな、お前のような生意気な女が俺は大好きなんだよなぁ……ああ、勿体ない。本当に殺すには勿体な――」
――――ガゴンッッ!!!!!
その派手な音が室内に反響した瞬間、アルマは勿論のことヨルダンの方も大した反応を示すことは出来なかった。それぐらい唐突だったからだ。
一方で、音の発生源たるその人物は、室内に降り立った時には既に次の動作へと移っていた。
最短、最速、最適。
一切の無駄がない合理的な挙動でもってヨルダンに肉薄したその人物は、
「――い?」
この状況に理解がまったく追い付いていないであろうヨルダン・ネッケの右肩から下を、手にしていた剣でもって躊躇なく――斬り落とした。
「は?」
失われた己の右腕を見ながら、ヨルダンは酷く間抜けな声を出した。もしかしたら痛みはないのかもしれない。それくらいの速度で事を行なった人物は、そのまま流れるような動作でヨルダンの巨体を蹴りで容赦なく吹っ飛ばした。あばら骨が何本か砕けた音と共に、ヨルダンは壁へと叩きつけられる。
そして今度こそ、ヨルダンは完全にその動きを止めた。絨毯に広がっていく赤は、彼の右肩から絶え間なく流れる出血によるもの。
切り離されたヨルダンの右腕は力を失い、ベッドの脇へと落ちる。そこでようやく呼吸することを思い出したアルマは、激しく咳き込みながらもぼやける視界を瞬かせる。
そして、その人物の姿を映し取り、堪らなくなって苦しいのも構わず無理やり声を絞り出した。
「ゴホッ……ディー……っ!」
そんなアルマの呼び声に、手にしていた剣を滑り落としたディートハルトは泣きそうな顔をしながら手を伸ばす。
そして強く、本当に強く。
――まるで縋りつかれるように、アルマはディートハルトに抱きしめられた。
「アルマ……アルマ、アルマ……ッ……」
何度も自分の名前を肩口で祈るように叫ばれて、胸が締め付けられる。
あの日の、あの雨の夜の戦場の。レスティアとしての生を終える間際の記憶と重なって。
またあんな風にこの人を悲しませてしまったことが、何よりも辛い。そう思った。
「ディー……ごめん、ごめんね……でも、わたしは大丈夫だから……お願い、泣かないで……」
手足を縛られた状態じゃ抱きしめ返すことも出来ない。そのもどかしさに歯噛みしながら、アルマはディートハルトを安心させるためだけに、優しく、慰めるように、謳うように言葉を紡ぐ。
それで少しずつ落ち着いてきたのか、ディートハルトの腕の力が徐々に弱まっていく。
「……ディー、こっち見て」
アルマがそう願えば、彼はゆっくりとその顔を肩口から離す。不安に揺れるタンザナイトの瞳と向かい合って、覗き込んで。
自分の目じりに自然と涙が溜まるのもそのままに、アルマは自然と柔らかく微笑んだ。
「助けに来てくれてありがとう、ディー」
「……すみません、遅くなりました」
「ううん、そんなことないよ。わたしこそ、心配かけて本当にごめんね」
心からそう返すアルマの目元の雫を、ディートハルトの指先がそっと拭った。
彼はそれからアルマの全身に目を走らせ、一度目を瞑ると、今度は低く硬い声で問う。
「……怪我は? 首を絞められた他にあの男には何をされましたか?」
「いや、大したことはされてないよ? ちょっとキスされ――」
そうになった。
と、アルマは言うつもりだった。しかし出来なかった。
気づいたときには、物理的に塞がれていたからだ。
今日一番の衝撃に襲われ、固まったアルマは、ただただディートハルトにされるがままだった。
しばらくの後、解放されたアルマは目をぱちくりさせながら呆けた顔でディートハルトを仰ぐ。
対する彼は至極真面目な表情でただ、
「消毒です。他には?」
とだけ言った。
かくして数秒後、色んなものの臨界点を超えたアルマは――――目を回して気絶したのだった。




