ディートハルト、吼える
――遅いな。
ディートハルトはアルマが出て行った扉から決して目を離すことなく、壁に背を付けて腕を組んでいた。
彼女の姿が見えないだけでこんなにも落ち着かない。理屈ではない。本能のようなものだ。
好奇の視線があらゆる方向から遠巻きに、だが無遠慮に飛んでくる鬱陶しさも手伝って、現在のディートハルトの気分は最悪に近いものだった。
クラリスへの義理も果たしたことだし、アルマが戻って来次第、早々に引き上げようか――
ディートハルトが本気でそう考えていると、
「――団長、少しいいですか?」
騎士団の制服に身を包んだ部下ダグラスの声が左側から聞こえてきた。しかしディートハルトはそちらへ顔を向けることなく、ただ「ああ」と言葉だけを返した。視線は依然として、扉から外さない。
「アルマは?」
「化粧室だ。すぐに戻ってくる。……で、用件はなんだ」
低く問えば、ダグラスが一歩こちらと距離を詰め、周囲には聞こえないよう配慮して話し始める。
「先ほど、クラリス王女殿下――ではもうなかったですね。クラリス様が会場の外へ出向かれました。ヨルダン・ネッケと二人きりで」
「二人きり? 警護の者は?」
「クラリス様より不要と断られました。そもそも騎士であるヨルダンが付いているから、と」
ディートハルトは人知れず眉間に皺を寄せる。
クラリスが何を思ってヨルダンとの密会に応じたのかは実のところ見当がついている。
アルマのことを嗅ぎ回っていると知った瞬間からディートハルトの中でヨルダンは明確な敵として認識したため、身辺調査は念入りに行なったのだ。
そうして浮き彫りになったヨルダンの悪しき所業の数々を思えば、正義感の強いクラリス自らが引導を渡すべく動いたとしても不思議ではない。
何故なら彼女は知っているからだ。ヨルダン・ネッケの本当の狙いを。
だからこそ、ディートハルトはこれ以上アルマをヨルダンに近づける気はさらさらなかった。
こちらが手を下さずとも、遅かれ早かれヨルダンは終わる。
わざわざ相手にするだけ面倒というものだ。
ゆえに、ディートハルトは最終結論をダグラスへ淡々と告げる。
「放っておけ。クラリスならば上手く対処するだろう」
「……やけに信頼されてますね、クラリス様を」
「信頼はしていない。能力についてある程度は信用しているだけだ」
「それって、何か違いでもあるんですか?」
「私がこの世界で信頼しているのはアルマだけだ」
ディートハルトは一度下した自己の判断を曲げることは滅多にない。
例外はアルマが絡んだときだけ。彼女が真に望まないことはしない。それは自分の判断や感情よりも優先される。それがディートハルトの価値基準であり、絶対的な規律だ。
クラリスやダグラス、そしてアメルハウザー公爵家に仕える者たちなど、能力や人格についてある程度は信用している者も当然いる。
だが所詮は利害関係による繋がりでしかない。だから彼らに裏切られたとしても、ディートハルトは揺らがない。揺らぎようがない。
本当にアルマだけなのだ。
ディートハルトの感情を大きく揺さぶることが出来る存在は。
そんなディートハルトの心情をどこまで理解しているかは不明だが、ぼそりと「重い……」と呟くダグラス。それを敢えて無視し、ディートハルトは扉を注視し続ける。
一秒でも早く彼女の姿を目に入れて安心したい。その一心で。
だが、ディートハルトの期待は裏切られる。
扉は開いた。それも勢いよく。
そして飛び込んできた人物を認めた瞬間、ディートハルトは弾かれるように走り出した。
「っ!? 団長!?」
背後でダグラスが動揺の声を上げるがそれどころではない。
ディートハルトは人がごった返す大広間においても一切誰ともぶつかることなく、目的の人物の眼前まで最速で迫った。相手は相手でこちらを探していたのか、急接近に驚きはしたもののすぐに何かを伝えようと口を開きかける。
「――彼女はどこだ」
待ちきれずに放ったディートハルトの焦りを孕んだ声音に対し、先ほどアルマの案内を買って出た給仕の女性は胸の前でぎゅっと手を握ると、
「お、お連れ様は先ほどお知り合いと思しき女性に頼まれ、行方が分からなくなっているというエリーチカ様と仰る方をお捜しに行かれました。そしてアメルハウザー公爵閣下には「戻れなくて申し訳ありません」と申し伝えるよう言付かりました……っ」
一息にそう言い切った。
エリーチカの名前が出た瞬間にディートハルトは思考を加速させる。
同時に大広間をぐるりと見渡してエリーチカの姿が確かに見当たらないことも確認すると、再び給仕の女性に問う。
「彼女と別れた場所とおおよその時間は?」
「場所はここから扉を出て左方向、化粧室と休憩室との分岐に位置する廊下でございます。お時間は……おそらく五分は経っていないかと思いますが――」
そこまで聞くと、ディートハルトは周囲の目などまったく気にすることなく大広間から飛び出した。
そのまま最高速度で走り、一分もしないうちに給仕が証言した地点まで辿り着くも、アルマの姿は見当たらない。
既にエリーチカを捜しにこの場を離脱したという可能性は十分にある。
だが、ディートハルトは廊下に残された不自然な床の傷と場に微かに漂う薬品の匂い――それら常人なら見逃してしまうであろう僅かな痕跡から、ほぼ確信を持った。
「……団長ッ!!!!」
ちょうどその時、ディートハルトを追って来たダグラスの硬い声が廊下に木霊した。
「いったい何がどうしたって言うんですか!? アンタらしくもない――」
「アルマがいなくなった。拉致された可能性が極めて高い」
「……はあぁ!?」
「今すぐに王城から外へと通じる門をすべて封鎖しろ。誰一人として城の外へ出すな」
ディートハルトはダグラスに最低限の指示をすると同時に先ほど出てきたばかりの大広間へと取って返す。
そしてそのまま王族専用の貴賓席へと一切の躊躇なく近づいていった。
途中、警護担当の騎士たちが戸惑いながらもディートハルトの往く手を阻もうと前に出るが、他ならぬ国王陛下が「よい、下がれ」と騎士たちを諫める。
ディートハルトのただならぬ雰囲気を察知した一部の貴族たちが様子を窺おうと息を潜める中、
「……アメルハウザー公爵。いったい何用か?」
国王陛下は緊張を押し殺し、周囲からは冷静に見えるよう取り繕った上でそう口にする。
対するディートハルトは、見る者すべてが震え上がるほどに凍てついた瞳のまま、
「今しがた王城内で私の身内を巻き込んだ拉致事件が発生した。ゆえにリーンヘイム王国の第二騎士団長ディートハルト・アメルハウザーの名と権限において、現時刻をもって夜会を中断。事件解決まで誰一人としてこの場から動くことを禁ずる――!!」
この場の絶対的支配者として、国王陛下を含めた会場内すべての人間に、そう宣言した。




