ディートハルト、想う
椅子に深く座り込み眠ってしまったアルマを眺めながら、ディートハルトは嘆息する。
本当に、奇跡のようだ――否、これを奇跡と呼ばずになんと言うのだろうか?
手を伸ばせば容易に触れられる距離で、己の唯一が、愛しい人が、息をしている。
そのことがこんなにも胸を焦がす。抑えきれないくらいに。
「本当に……どうかしているな」
そう呟きながら席を立ち、月の光とランタンに照らされた彼女の小さな身体を抱き上げる。
何度繰り返しても、その羽根のような軽さには内心戸惑うばかりだ。
少し力を籠めるだけで簡単に骨を砕くことが出来てしまうほどに、脆く繊細な、子供の体躯。
自分よりも高い体温を感じる度に、彼女が生きていることが確認出来て、安堵する。
ディートハルトはテーブルの上はそのままに、アルマを横抱きにして迷うことなく談話室を出た。
人気のない屋敷の廊下を月明かりだけを頼りに歩きながら、無意識のうちにその安らかな寝顔を見つめてしまう。そして思う。
――眠りの世界へ誘われる前に発した言葉の重みを、この人はどこまで理解しているのだろうか?
これでもディートハルトは自覚している。
自分が彼女に向けるすべての感情が、執着が、途方もないことを。
だから同じだけの感情を彼女に求めるつもりは最初からない。不可能だと知っているからだ。
なのに、彼女はあっさりと言うのだ。
レスティアであった最期も、アルマとして生まれ変わった時も。
ディートハルトのことを一番に想っていたと。だから会いに来たのだと。
「そんなことを告げられた僕がどう想うかなんて、貴女には想像もつかないのでしょうね」
自嘲を多分に含んだ声音が夜の静寂に溶けていく。
――いっそ、世界が自分と彼女の二人だけになってしまえばいいのに。
そんな子供の空想にもならない馬鹿げたことを考えてしまうほどに、彼女と二人だけの時間は甘美であり、得難いものだ。想いは際限なく膨れ上がっていく。止めようもないし、止めるつもりも毛頭ないが。
しかし現実はディートハルトの願望に手厳しい。その証拠に再会してからまだ一週間ほどしか経っていないのに、彼女の周りには既に人が増え、注目が集まりつつある。
そこには当然ディートハルトにとって許容しがたい者も交っているので、より一層、警戒する必要があるだろう。
特にグランツ卿とその孫娘がこのまま引き下がるとは到底思えない。
埒が明かないようならば、辺境伯家自体を取り潰すことも視野に入れるべきか。
そんな物騒なことを平然と思案しながら、ディートハルトは彼女を自分の胸の方へとより密着させるように抱きしめる。
柔らかな彼女の香りに混じって、少しだけミルクと、それとは別のもっと甘ったるい匂いを感じた。
そうして束の間の夜の散歩は、ほどなく終わりを迎える。
アルマの私室としてあてがった部屋に足を踏み入れたディートハルトは、そのまま広い寝台へと彼女を横たえた。まったく起きる気配が感じられない彼女の足から室内履きを外し、滑らかな手触りのブランケットを優しく掛けた。
甲斐甲斐しく世話を焼くその様子は、少しでもディートハルトと面識のある人間が見たら自分の正気を疑うほどに衝撃的な場面だろう。
ディートハルト自身、アルマ以外にこのようなことをすることは決してあり得ない。
「んっ……」
ブランケットの裾をぎゅっと握り、ディートハルトがいる方向へ寝返りを打つアルマ。
やがてすぅすぅという可愛らしい寝息だけが、部屋の中に広がっていく。
ディートハルトはしばらくそんなアルマの寝顔を眺めていた。
本音を言えばいくらでも見ていられるが、生憎と明日の予定も詰まっている。ディートハルト自身、多少の睡眠は必要だ。
名残惜しい気持ちを押し殺し、ディートハルトは最後にアルマの銀の髪にそっと触れた。
先ほど自分の髪を無遠慮に撫で回したことへの意趣返し――いや、そうではない。
ただ純粋に、ディートハルトがアルマに触れたかっただけだ。
最近まで孤児として育ったアルマの髪は短く、今は肩よりも少し下あたりの長さしかない。
食事や睡眠の質、そしてさりげなく侍女に世話を焼かれ、ここに来た当初よりも格段に艶やかさを増したそれに指を絡めて、しばし弄ぶ。
そして戯れに、ディートハルトはベッドに空いていた方の手を付いて、屈みこみ――
「……おやすみなさい、良い夢を」
アルマの髪にそっと口づけを落とす。
そこに性的な色はなく、逆に祈りのような神聖があった。




