アルマ、ディートハルトと夜に語らう
「……眠れない」
予想外の手合わせが行われた日の夜中。
アルマはアメルハウザー邸内にて割り当てられた自室のベッドで、ぽつりと呟いた。
完全に目が冴えてしまっている。
正確な時刻は分からないが、体感的に夜明けまではまだまだ時間が残されているだろう。
普段は極上の眠りへと誘ってくれるふかふかのベッドも、今日はその真価を発揮してはくれない。
仕方なく起き上がったアルマは、左足を痛めないように気を付けながらそっとベッドを降りた。
そして寝間着ワンピース姿のまま踵のない室内履きをつっかけ、扉の方へゆっくりと歩き出す。
目的地は使用人向けの炊事場。喉が渇いたので水か、あわよくばミルクでも温めて貰おうかと考えたためだ。
アメルハウザー邸の夜は静かだが、炊事場には必ず当直の人間がいる。
頼めば快く引き受けてくれるだろう。
そう思いながら月明かりが差し込む長い廊下を小さな歩幅で進んでいた時――
「……何をしてるんですか、アルマ」
ちょうど廊下のつきあたりで、手にランタンを携えたディートハルトと鉢合わせした。
普段は隙のない格好をしている彼にしては珍しく、ゆったりとした襟付きシャツとスラックスという組み合わせが新鮮に映る。
「ディーこそ、こんな夜中まで仕事?」
「ええ、少し領地のことで。ちょうど終わったのでこれから自室に戻るところですが――」
「わたしはちょっと眠れなくなって。喉も渇いたし飲み物を貰おうかなと」
「……足を怪我しているのですから、飲み物が欲しければ屋敷の人間を使ってください」
「いやいや、わたしもディーの使用人みたいなものだし、そんな図々しい真似は出来ないから」
線引きは大事だと言い張るアルマに、ディートハルトは小さくため息をつく。
そして次の瞬間には問答無用でアルマを片腕だけで簡単に抱き上げた。不安定な体勢に驚き咄嗟にディートハルトの首へと手を回したアルマに、彼は微かに目を細めながら柔らかな声で提案する。
「……せっかくですし、少し話をしませんか? 飲み物は用意させるので」
「それは構わないけど……足、そんなに大した怪我じゃないし歩けるよ?」
「ダメです。僕の目の届くところでは歩かせません」
言って、ディートハルトは来た道を戻り始める。
それから炊事場へ行き当直の侍女に声を掛けて飲み物を運ぶように指示を出すと、ディートハルトはアルマを腕に抱えたまま、邸内の比較的こじんまりとした談話室までやって来た。
ちなみにアルマは初めて入る部屋だ。中央に大きめのローテーブルとソファーのセットが組まれ、室内奥にある大きな窓の下には、小さめのテーブルとそれを挟むように椅子が二脚、備え付けられてある。
ディートハルトは奥まで進むと、アルマを椅子に座らせ、自分も向かい側の椅子に腰かけた。
ほどなく侍女がやってきて、アルマ用のホットミルクとディートハルト用のワイン、さらに簡単なつまみをテーブルの上にセッティングする。
彼女は嫌な顔一つ見せず笑顔で「ご入用の際はお呼びくださいませ」と一礼して部屋を後にした。
室内の明かりは、テーブルの上に置かれたランタンと、窓から降り注ぐ月の光のみ。
それがなんだか非日常的な雰囲気を作り出していて、アルマは空を見上げながらほぅと息をついた。
「こうしてディーとのんびり月を眺める日が来るなんて、思わなかったなぁ」
脳裏に過るのは、レスティア時代の過去の残滓。あの頃は戦時中ということもあってとにかく余裕がなかった。月の光は時と場合によっては敵にも味方にもなるもの。そんな認識だったから、純粋な美しさに目を奪われるということがアルマにとってはとても贅沢なように感じられる。
「そうですね……本当に、奇跡のようだ」
ディートハルトが、ワイングラスを弄びながら切なげな表情をする。
十二歳の頃は、こんな表情はしなかった。二十一歳になった彼だからこその顔、ということなのだろう。アルマが知らない九年間という歳月が、そこには確かに存在する。
「ディーは、十二歳から今まで、どんな風に生きてきたの?」
カップ越しの熱で指を温めながらアルマが問えば、ディートハルトはどこか遠くを見るような眼をした後で、自嘲気味に微笑んでみせる。
「貴女に聞かせられるような楽しい人生ではなかった、とだけ。思えば忙しさだけが救いだったかもしれません。為すべきことが明確なうちは、それに没頭出来ましたから」
――なんて寂しいことを言うのだろう。アルマは胸が締め付けられる思いだった。
レスティアであった頃も、そして今も。アルマはディートハルトの幸福を心から祈っていた。
にもかかわらず、自分が不在であった九年を振り返った彼の感想はあまりにも悲しい。
アルマは何か声を掛けなければと必死で考えて、でもすぐには言葉が出てこなかった。
そんなアルマのもどかしさを和らげるように、ディートハルトが優しい表情を向けてくる。
「そんな顔しなくていいんですよ。もう過去のことですから」
「……うん、分かってる。分かってるけど……」
「もし僕に何か罪悪感を抱いているのであれば、これから先、ずっと一緒に居てください。間違ってもグランツ卿なんかに丸め込まれないでくださいね」
唐突に出てきた名前に、アルマは思わずしんみりした空気から一転して目を丸くする。
「グランツ卿って……医務室で会った方だよね? 確か辺境伯って聞いたけど」
「はい、そして騎士団統括本部の重鎮でもあります。今日のことでアルマに興味を抱いたようでしたので油断しないでください。ましてやお見合いなんて馬鹿な話、決して真に受けないように」
「お見合いって確か三歳年上の孫だっけ……」
「……もしかして、彼の孫に興味があるんですか?」
ディートハルトが珍しくアルマに対して剣呑さを滲ませた声を出す。
アルマは慌てて大げさに首を横へ振った。
「いやいや、あり得ないから! わたし精神的にはとっくに成人してるのに!」
「ですが、実年齢としては釣り合いが取れているでしょう?」
「そういう問題じゃないってば! だいたい、年齢のこと言うならまだ九歳なんだから恋愛とかそんなの全然考えられないし……」
なんだか話が変な方向に転がり出している気がする。そんな嫌な予感を覚えたアルマだが、ディートハルトは逆に興が乗ってきたのか、優雅にワインを傾けながらも追及の手は緩めない。
「では、今は恋愛する気はないと? 誰とも?」
「当たり前でしょう! 今はディーの役に立つために仕事を覚えることが最優先なんだってば! それに騎士になるための鍛錬もあるし、恋愛なんかしてる余裕ないよ!」
きっぱり言い切った後で、アルマはここに来て初めてホットミルクのカップに口を付けた。
少し冷めてきていたために火傷する心配もなく、一気に半分ほど飲む。
何やら後味が普通のホットミルクとは違う気がしたが、美味しいことには変わりない。
自然と肩の力も抜けて落ち着いたところで、
「そういえば、どうしてアルマは今回も騎士を目指しているのですか?」
そんなアルマの様子を楽し気に見ていたディートハルトが、さらに質問を重ねる。
そこでアルマは少し考えた後で再びホットミルクをひと口飲んで。
「――ディーに、会いたかったから」
端的にそう答えた。
自分の名前が出たことで、ディートハルトが微かに目を見張る。
「僕に? どういうことですか?」
「えっとね、わたしにレスティアの記憶が戻ったのは七歳の時って話はしたよね? そこで一番に思ったのが、ディーにまた会いたいってことだったの。レスティアの最期の心残りでもあったから……」
もうひと口。喉を湿らせる。
ほのかに甘く、それが妙に心地よくて、自然と顔が綻んだ。
「でも、わたしは孤児だったから。普通の生活をしていたら絶対に会えないって分かった。それで色々と調べて、ディーが騎士団長になってるって知って。だから騎士になれば、レスティアって認識してもらえなくても、遠くからしか見れなくても……もういちど会えるかなって思ったんだ」
なんだかふわふわする。ここに来て少し眠気が戻ってきたのかもしれない。
心なしか身体もポカポカと温かくなってきた。
「だから……わたしは、ディーに会うために、騎士になることにしたんだよ」
非常にいい気分になったアルマがニッコリと笑ってそう告げれば。
「…………なんで、そんな殺し文句をさらっと言うんですか……」
ディートハルトの顔が、ランタンの明かりとは違う赤みを帯びる。
彼は口もとに手を寄せながら視線をアルマから外した。どうやら照れているようだ。
それがなんだかとても可愛く思えて。
アルマは上機嫌なままテーブルに片手をついて身を乗り出すと、もう片方の手を伸ばしてディートハルトの髪に触れる。柔らかな金糸の髪はとても触り心地が良くて、拒絶されないのを良いことに気が済むまで撫で回した。
「でも結局、騎士にならなくても会えちゃったね? ディーが、わたしを見つけてくれたから」
「……見つけられて良かったです。もしパレードで見逃していたら、あと数年はお預けを食らうところでした」
「ふふっ……そう、だね……」
苦笑と共に零れ落ちたディートハルトの本音を聞きながら、アルマはふいに手を止め、再び椅子に深く腰掛ける。
ここにきて急激に襲い来る眠気。抗おうとしても自然と瞼が下がってくる。
「……眠いなら、寝てしまっていいですよ」
「…………うん」
耳に心地よい低音が優しく囁くのに後押しされ。
小さな声で返事をしたアルマは身体が求めるままに、その意識をゆっくりと手放していった。




