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耳元でジャルージ伯爵の声が聞こえた。
膝ががくがく震えて声がだせない。
(なんで……なんで……)
頭が混乱する。どうしてこんなことになったのか。リネットはわからなかった。
いや、本当は心の底ではわかっている。でも、認めたくなかった。ワインがここにあると告げたときの侍女たちの笑みが、何度も頭の中でリフレインする。
信じられなかった。ただお互いに気に入らない存在というだけで、ここまでされたことを。
信じたくなかった。暗い部屋で伯爵に抱きすくめられている今の自分の状況を。
でも、いくら心が拒絶しようとも、今の状況はかわらない。
(とにかく逃げなきゃ……)
そう思うのに体が震えて力が入らなかった。
(誰か……!お母さん……!)
母親の顔を思い浮かべる。
だが―――少しぐらいは我慢しなさい―――リネットの頭に思い浮かんだ、その言葉をリネットに告げる母親の顔は、リネットのことを心配をしてくれるのではなく、リネットの側仕えの地位を心配した顔だった。
お母さんはこの状況で自分を助けてくれるのか。
それは考えたくない、恐ろしい疑問だった……。
(フィールさま……)
フィールさまの顔を思い浮かべるが、彼女はパーティーの主役だ。忙しくて、こんなところ来られるはずがなかった。
誰もリネットのことを助けてくれる人はいない。
絶望の涙がリネットの頬を伝った。
「そうだ、いい子だ。大人しくしてなさい」
にやついた声とともに伯爵の手が、リネットの体に触れようとした瞬間。
「いやあっ!」
咄嗟にリネットは逃げようと暗闇の中で前に手をのばしもがいた。その手が何かを掴み、リネットはそれを無我夢中で振った。
ゴンッと鈍い音ともに、誰かが倒れる音がする。リネットを掴んでいた手が離れていった。
リネットは必死に暗闇の中で扉を探した。
手で必死に壁を探り、ドアノブに手が当たると、震える手でそれを回す。
扉は開いた。鍵はかかってなかった。
リネットは廊下のほうへと飛び出した。
明るい場所に飛び出し、そこで力が抜けてへたり込む。
しかし、廊下には人気がなかった。偶然なのか、それとも伯爵が人を除けたのか。
(に、逃げなきゃ……)
そう思うのに、足に力が入らなかった。
「よくもやってくれたね……、リネット……」
扉の向こうから、ジャルージ伯爵がでてくる。
その顔を見たとき、リネットの心臓は止まりそうになった。
いつものようなねっとりとこちらを見る視線に、怒りの色が混じっている。そして額からは一筋の血がながれでていた。
「君は大変なことをしてくれたんだよ。王妃殿下の親戚であり伯爵であるわたしに、男爵家の娘である君が暴行を加えたのだから」
「で、でも、それはあなたが……」
「わたしは君と単に仲良くしようとしただけだ。それを何と思ったのか知らないが、勝手に誤解して暴力を振るい傷まで負わせたんだ。わたしのこの傷と、君の手に握られてるものが何よりの証拠だ」
リネットの手の中には、伯爵の血がついた銅製の置物があった。
そんなわけがない。
そんなわけないのに、リネットの立場はこの上なく不利だった。
暗い部屋の中でリネットがジャルージ伯爵に襲われた証拠はどこにもなかった。いまある証拠、二人の身分の差を考えれば、この件でどちらが糾弾される立場になるかは明白だった。
そうだ。どちらを信じるかではない。王宮にいる人たちにとっては、非のありそうな方に、立場が弱いほうに罪を押し被せれば、それですんでしまう話なのだ。
侍女たちも決してリネットのことを擁護してくれたりはしない。そちらのほうが彼女たちにとっても都合がいいのだから。
フィールさまはかばってくれるかもしれない。でも、彼女は周りや親との争いになれば、きっと心を痛めてしまうだろう。そんなことできるはずがなかった。
「そんな危険な人間は、フィールさまの側仕えには相応しくないなぁ。これは王妃殿下に進言しておかなければならないかもしれん。君はそれでいいのかね?」
その言葉にリネットはハッとなった。
母親の顔がまた浮かんでくる。
『ぜったいに問題は起こさないで』
リネットの母は、リネットがフィールの側仕えに選ばれたとき言ったのだ。
『決してこの地位を手放しちゃだめよ。あなたはこの『侍女の名家』の希望の星なの。何があっても絶対にうまくやるのよ』
もし、ここで問題を起こして、フィールさまの侍女から外されたら、母はどう思うだろう。
「王妃殿下に言うのはやめてください……おねがいします」
リネットは伯爵に懇願した。
不条理だった……。
なんでこんなことをしなければならないのと思う。なんでこんな奴の言葉を聞かなければならないのと思う。でも、お母さんの期待を裏切れなかった……。
リネットの言葉を聞いた伯爵は、にんまりとした笑みを浮かべる。その笑みはリネットのことをぞっとさせた。
「なに、悪いようにはしないよ。君がわたしのいうことを、これからはちゃんと聞いてくれればいい。そうすれば、この罪も帳消ししてあげよう」
リネットはこくりと頷いた。
傷を見せ付けるように指しながら、伯爵が一歩一歩近づいてくる。
もうリネットは逃げ出すことはできなかった。
光のある場所に逃げたはずなのに、視界は薄暗い闇に浸されていく。伯爵の声もどこか遠くから響いていくようだった。もう逃げられないとしても、せめて心だけはここではない、どこかへ逃げ出したかった。
「なにをしてるの?」
その声は、心だけでもここから逃げ出そうと思っていたリネットの耳に、不思議とすっと聞こえてきた。
リネットと伯爵、二人しかいないと思っていた場に響いた声。
「フィ、フィー王女!」
伯爵の動揺した声に、リネットもそちらを向いた。
廊下の向こうから、あのときの少女がこちらに歩いてくる。フィールさまと同じ金色の髪に、古着のドレスを着たこの国のもうひとりの王女。
(あ、少しましになってる……)
フィー王女の着ているドレスは、ちゃんと袖のしわがのばしてあった。
伯爵への恐怖と嫌悪に疲弊した心は、なぜか王女の姿をみてそんなことを思ってしまった。
フィー王女はてくてくと、こちらにやってくる。
そして座り込むリネットと、ジャルージ伯爵を交互に見て、もう一度訪ねた。
「何してたの?」
口を開いたのはジャルージ伯爵だった。
「この子がわたしに暴力を振るったのですよ。ほら、このとおり証拠もあります。
このようなことをすれば、本来は侍女失格なのですが、さすがにそれはかわいそうに思い、許すかわりに少しわたしが教育をほどこしてやろうと思っていたとこなのですよ。そうだろう、リネット?」
伯爵はすぐさま言い訳を考え、フィー王女に話した。
そしてそれに頷くしかないのが、いまのリネットの立場だった。逆らっても不利になるのは自分の方だ。問題を明るみにだせば、それが痘痕となり側仕えの地位が危うくなる。たとえ伯爵が悪くても、糾弾されるのはきっとこちらのほうだ。
リネットは側仕えの 地位を失うわけにはいかなかった。母親のためにも、家のためにも。
たとえどんなにジャルージ伯爵が悪くても……。
「はい……」
虚ろな表情でリネットは頷く。
「それではこれで失礼します。リネット、ついてきなさい」
伯爵は場を移動しようとし、リネットは言うとおりにそれについていこうとした。
「ふーん、証拠ね。見せて」
しかし、フィー王女はそういいながら、リネットに手を差し出した。
その置物をよこせ、という仕草だった。リネットは戸惑いながらも、伯爵のほうを見て、特に止められなかったので、フィー王女にそれを渡した。
「ほら、わたしの血がついておりますでしょう」
フィー王女はその像を、何度かひっくり返して見分したあと、今度は伯爵にいった。
「伯爵、あなたの傷もみせて」
(何がしたいの……。この子……)
リネットはそう思わざるを得なかった。
伯爵を傷つけた時点で、リネットの立場はもう終わったのだ。どんなに相手が悪くても、相手が伯爵家であれば、男爵家の自分のほうが逆らったときに負う傷は大きい。しかも、今回は相手の方に証拠まである。
もはや、どうにもならない。
少し……。そう、少し我慢するだけ……。それだけですむ。
お母さんが大事にしていたリネットの側仕えの地位は守られる。だからもう、さっさとすませてほしかった。そうじゃなきゃリネットの心は……。
「は、はあ……?」
伯爵の方も王女の言動に戸惑いながら、しゃがんで王女に傷を見せる。
「ふーん、それがこの子があなたを殴った証拠ね」
「その通りです」
すると、フィー王女は像を振りかぶり、それで伯爵の頭部を思いっきりなぐりつけた。
「ぐああっ」
かなり本気で殴ったらしい。あたりに血が飛び散り、伯爵が傷をおさえて地面に座り込む。
リネットは突然展開されたその光景に目を見開いた。
伯爵は頭を抑えのたうち回ったあと起き上がり、フィー王女とリネットを睨みつけて言った。
「なんてことをするんです!こんなことをすれば無事ではすみませんぞ!あなたはともかく、そこのリネットは!暴力を振るったことがばれれば、フィールさまの側仕えもクビです!」
「そう?」
その言葉にフィー王女は笑った。
「でも、わたしがあんたを殴った証拠はあるけど、そこの子があんたを傷つけた証拠なんてどこにもないけど?」
その言葉に伯爵が目を見開いて固まった。
リネットが伯爵に傷をつけた位置には、新たにフィー王女が殴った傷が、上書きされるように大きくつけられていた。
そしてフィー王女の手には、血まみれの置物がにぎられてる。
その光景を見た人達が、誰が何をやったと判断するかは明白だった。
「まあこれでも足りないなら、もっとやってあげる!」
フィー王女がまた像を振りかぶり、伯爵にたたきつけた。
容赦ない攻撃に、大の大人が頭をおさえ縮こまる。
「ひぃっ、やめ、ぎゃあああああ!」
リネットはその光景を呆然と見ているしかなかった。
悲鳴を聞きつけ、侍女や兵士たちがやってくる。彼らが見たのは、像を振り上げ伯爵に暴力を振るう王女の姿だった。
「たいへん!」
「お止めしろ!」
慌てて兵士が伯爵と王女を引き離す。
血だらけになった伯爵は顔をおさえ、ぶつぶつと恨み言をつぶやいた。
「許されませんぞ……。こんなこと許されません……」
そんな伯爵を見返しながら、フィー王女は冷たく言い放った。
「許されないって?わたしは王女よ」
王宮における彼女の立ち位置は奇妙な場所にあった。
王族や大貴族の人間からはほとんど無視され、王族としては扱われない王女。王や王妃からの寵愛は皆無であり、誰からの後援もない。
しかし同時に、彼女は確かにこの国の王女だった。
普段の彼女が王女として扱われているかというと、否だった。
生活はかろうじて侍女たちに見てもらい、着ているドレスはお古で管理もずさん、社交の場に招かれたことは一度もない。
それでも正統な王族の血をひいた、身分はれっきとした王女だ。
臣民の者たちはひとたび彼女が王女というカードを切れば、そう扱わざるをえない。
リネットはこの光景を見て気づいてしまった。
彼女は、本当はもっと王女らしい扱いされようと思えば、できるのだ。
そうするには簡単だった。
わがままを言えばいい。
そうすれば大貴族たちはともかく、侍女や臣下の人間は彼女のいうことを聞かざるえない。
本当はもっと良い扱いをうけることができたのだ。綺麗なドレスだって命令すれば、数着ぐらいは調達できたかもしれない。なのに彼女は、フィー王女はそうしようとしてこなかった。
きっとまわりを困らせようとは思わなかったのだ。どんなに雑な扱いを受けても、決して。
なのに、彼女はいま王女のカードを切っていた。
(わたしのためだ……)
「この王女と伯爵、どっちが偉いかはわかるでしょ?この男の顔を見てると不快なのよ。追い出してちょうだい!それからもうこの男を王城には入れないで!王女であるわたしの命令よ!」
まるで傲慢な王女のように彼女は言い放つ。
王女と伯爵。どちらの立場が上かは確かに明白だった。伯爵と男爵という立場で、一方的に脅かされた自分のように……。
でも、そんな単純に済む話ではない。
もちろん立場上の話では、一応のケリがつく。しかし、立場があっても周りから信任がない権力を振るえば、それは代償となって己にふりかかってくるのだ。
まわりからの不信という形で……。
兵士は彼女の言うとおり伯爵をつれていきながらもその目は冷たい。
「こんな事件を起こすなんてどうかしてるわ……」
「陛下からの愛情がないから歪んでしまったのね……こわいわ……」
「こんな傲慢な子が王女とは……。フィールさまとは違いすぎる……」
ひそひそと彼女の悪口が、この場ですら漏れ出している。
(ちがう……)
リネットには分かっていた。
フィー王女はこうなることを知っていたのだ。むやみに権力をふるえば、さらに自分への印象が悪くなることを。
知っていて、リネットのことをかばうためにその力を振るった。
「あなたたちもぞろぞろ集まって邪魔よ」
フィー王女はそんなまわりの陰口が聞こえても、顔色一つ変えることなく、傲慢な王女の仮面をかぶってまわりの人間を立ち去らせた。
フィー王女とリネットだけがその場に残る。
フィー王女はリネットの前にしゃがみこんで、やさしい、とてもやさしい笑顔を浮かべてリネットに言った。
「ごめんね、このお城で怖い思いさせちゃって。フィールのところもどろっか?」
その笑顔はフィールさまと同じぐらい暖かかった。
暖かい手がリネットの手をぎゅっとにぎり、立ち上がらせる。
そのままリネットは手をひかれ、フィールさまがいるパーティー会場までやってきた。
「フィールもパーティーで疲れてるみたいだから、側仕えのあなたが横でサポートしてあげて。フィールだってそっちのほうが喜ぶはずよ」
フィー王女はそう言って、パーティー会場の方にリネットの背中を押した。
そして自身は足を踏み入れようともせず、立ち去ろうとする。
あわててリネットはフィーに頭をさげた。
「あのっ、フィーさまありがとうございます……!」
フィー王女はきょとんとしたあと、あのときと同じ笑顔で「うん、どういたしまして」とリネットへ頷いた。
パーティー会場の向こうには、パーティーの中心として輝くフィールに寄り添うように王と王妃がいた。
彼らはたくさんの貴族たちに囲まれ、ひたすらこの晩餐会の光を一身に浴びている。
その視線は、ここにいるフィー王女には気づきもしない。
フィー王女も王と王妃に気づかれようとすることもなかった。
リネットをこの会場につれてくると、ただ静かに体を反転させ、この場を去っていった。
この後、フィー王女の存在を怖れたのか、伯爵が王宮に滞在することはなくなった。
彼は1年後に同じような事件を起こしかけ、今度はそれが明るみにでてしまい、ついに貴族の地位を廃せられることになった。彼が吹聴していた王妃とのコネクションも、大したものではなかったらしい。
リネットを嵌めた侍女たちは、もともと仕事ができない侍女だったらしく、勝手に自滅し王宮からは消えていった。
それよりもリネットが心を痛めたのは、事件の直後にフィーの悪評が各所で広まったことだった。
リネットは必死にフィーを擁護しようとしたが、フィーは気にしなくていいと首をふり彼女を止めた。
幸いといっていいのかわからないが、もともとフィーの存在感が薄かったせいか、悪評もわりとすぐに立ち消え、聞こえなくなっていった。
その分、伯爵の悪行が明るみになったときにもフィー王女の名誉は回復されることがなく、リネットとしては歯がゆい思いをしたのだった。
そしてこの事件のあと、リネットはひとつの願いを抱くようになる。
(わたし、フィーさまにお仕えしたい)
事件のすぐあと、リネットは母親にそう告げたが、母は形相を変えて彼女に言った。
「いったい何を考えてるの!あんな王女に仕えたいなんて、そんなこと許されないわ!あなたは『侍女の名家』の希望なのよ。フィールさまはその最高の仕える相手。きっと大国の王妃として娶られる。そのとき、きっとあなたは筆頭侍女になれる!
わたしたちはそのためにあなたを教育し、ようやくこのチャンスを掴んだのよ!バカなことを言ってないで、今の地位を守るのに全力を尽くすのよ!」
(フィーさまはあんな王女じゃない……)
リネットは初めて母に、小さいけれど反抗心を抱いた。
(そもそも侍女の名家って、それのどこに価値があるの?)
『侍女の名家』は、『名家』ではないのだ。
本当の『名家』ならば、わざわざ侍女になる必要なんてない。子供のころから何時間もひたすら使用人に必要な礼儀作法や、お茶淹れなどの技術をくり返し覚えさせられる必要もない。毒見みたいな古い時代の遺物のような訓練を受ける必要もない。
伯爵のような男に脅され……、不条理な命令をうける必要だってなかった……。
『侍女の名家』はただの男爵家。それが事実だった。
ただ使用人としての訓練を一族ぐるみですることで、王族や高位の貴族に使われている下位貴族の一門。
それでもその立場に誇りをいだけというなら、リネットはその価値のある人に仕えたかった。
フィールさまは確かに素晴らしい方だ。
でも、きっとリネットがいなくても、フィールさまは今とほとんど変わらず輝き続けるだろう。あの方はどんなドレスを着たって綺麗に見えるし、まわりにはたくさんの彼女を守ろうとする人達がいる。
そしてリネットにとっては、フィーさまも同じくらい素晴らしい方だった。
なのに彼女のまわりには、誰も彼女を支えようとする人はいない。まじめに服を洗濯してくれる人も、きちんと衣服の管理をしてくれる人も、彼女が王女として輝くためにサポートしてくれる人はいないのだ。
リネットが身につけた技術は、きっとフィーさまのような方にこそ必要なはずだった。
リネットはそうしてフィーの侍女になることを願ったが 結局それはずっと叶うことはなかった。
王も王妃もようやくリネットの価値がわかりはじめたのか、フィールの侍女から外そうとはしなかった。母は彼女がそういうたびに怒り狂った。リネットも自分を育ててくれた母親に反抗できるほどには強くなれなかった……。
それでもリネットはずっと思っている。
(いつかフィーさまに仕える侍女になりたい)
それが今日まで彼女の夢になっている。




