144
壁から墜落したアベルを見たとき、フィーはしまったと思った。
アベルが落ちたのは明らかに縄を放置していた自分のせいである。
屋敷の方では見張りが扉を叩く音がする。
「すいませーん、何か大きな音がしませんでしたか?」
あくび交じりの声。どうやら寝起きでよく聞いてなかったらしい。
「リネットお願い。見張りの人たちに『鳥が落ちてきた』って言ってきて!」
「えっ、庇うのですか? 突き出しましょうよ!」
フィーの言葉にリネットが驚く。でも、フィーは首を振った。
「可哀想だよ。怪我もしてるみたいだし秘密にしておいてあげよう」
アベルがこうなってしまったのは、たぶんフィーのせいだ。ここで突き出したら本気で可哀想なことになってしまう。
「お願い、リネット」
フィーがそう言うとリネットは最初、沈黙したが、じっと見つめると「わかりました」としぶしぶ了承した。とりあえずフィーは気絶したアベルを引きずってなんとかベッドに寝かせてると、リネットが戻ってきた。特に不審には思われなかったらしい。そもそも不審に思うほどやる気がないのかもしれない。
「フィ、フィーさま、もしかしてその男にベッドを使わせる気ですか?」
「そうだけど?」
「じゃあ、フィーさまはどこでお眠りになさるのですか!」
「まだ空き部屋はあるでしょ? 何だったらわたしはソファーでもいいし」
狭いといっても一応、小さな屋敷ぐらいの大きさはある。リネットが泊まるといっていたように、まだ部屋はいくつかあった。
「わかりました……。別の部屋を私が掃除してベッドメイクします」
半眼になったリネットが不満そうだがそう言った。リネットとしてはフィーさまをソファーで寝かせるなんてとんでもないことだと思っていたからだ。北の宿舎でぐうたらしてるときのフィーが、休憩室のお気に入りの椅子でうつらうつらしてることなんて知らない。
フィーさまがお休みになる部屋を適当なままにするなんて考えられず、早速いまから準備をしようとしたリネット。フィーはアベルがまだ気絶してるのを確認すると、そんなリネットに言った。
「じゃあ、わたしはちょっと着替えてくるね」
「はい……って着替えですか?」
なぜいまのタイミングで着替え、とリネットは首をかしげた。
足を怪我したアベルは後宮の主であるフィーの好意により、しばらく後宮に滞在することになった。
ここで過ごす日々はぶっちゃけ天国だった。
ベッドから降りることはできないが、フィーさまとリネットが手作りのご飯を作ってくれる。
(毎日、こんなに可愛い子たちの手料理が食べられるなんて幸せすぎるだろ!)
「何、にやけた顔をしてるんですか」
「まあまあ、リネット。どうですか、アベルさん。美味しかったですか?」
ただリネットの方には嫌われているようで、いまも睨まれている。それをフィーさまが困った顔をして宥めている。本当に優しい方だ。
そんなフィーさまが作ってくれたというシェニッツェル。
牛肉を薄く引き延ばしたものを浅い油で炒めたもので、オーストルでは一般的な料理だ。北の宿舎の食堂でも良く出てくる。
「はい! すごく美味しいっす!」
正直言って味は取り立てて美味しいというわけではなかったが、こんなに可愛い子が自分のために作ってくれたのだ。美味しくないわけがない。
「ふふ、良かった」
王族の血筋らしい上品に口もとを押さえて笑うフィーの仕草に、アベルの頬がポっと赤く染まる。それを見たリネットの視線がますますこちらを見下すものになった。
でもその笑顔を見れたのだから、美味しいと言って心底良かったとアベルは思う。
「フィーさま、いつの間に料理を覚えられたのですか?」
「ここにいる間、時間がありましたから、いろいろと覚えてみたんです」
その言葉を聞いてアベルははっとなる。
ずっと閉じ込められているという噂はやっぱり本当だったのだ。
(こんなにいい子なのに……)
それは王城にいるのにフィーの姿を誰も見たことがないことから公然の事実のはずだった。だけどあらためてフィーのことを知ったアベルにはまったく違ったことに見えた。
リネットとの会話からすると、普段は彼女すらもここにいない状態らしい。ということはいつもは1人でここで暮らしているのだ。
ずっとこんな離宮に1人っきり……。
いままでその話を聞いても何も感じたことが無かったアベルなのに、その胸はずきりと痛んだ。




