五月の風と紺碧の目
吾輩は、猫である。
昼寝を愛する猫であり、吾輩が死んで半世紀が経つ。
吾輩は茅葺屋根の小汚い小屋で没したが、土地に縛られてしまったからか生き汚い化け猫になってしまった。
今は五月の初旬、今日も水面に差す木漏れ日と動かなくなった水車を見ながら怠惰に生きている。
吾輩の敬愛する主は川中島の戦から帰ってこず、悠久の年月を孤独に過ごした吾輩は主の面差しさえ朧げになってしまった。
でも――吾輩は愛されていた、それは眼差しだけで伝わっていた。
人間曰く――目は口程に物を言う、と。
(主は今、どこにおるのだろうか)
未だ帰らぬ主、もうこの世にはいないと分かってはいる。
短命な猫は言うに及ばす、人間にも寿命がある。
だが――共に生きられないのなら、せめて主と共に眠りたい。
(でも、きっと叶わない願いなのだろう)
初夏の日差しに充てられて、瞼が落ちていく。
そのまま微睡みに身を委ねようとした時、小さな声が聞こえた。
「もし、誰かおりますか?」
声の主はどうやら女の様で、小さな声で扉の中に声を入れたが小屋の中に人などいる筈はない。
次に女は戸を叩く。
1回――2回と扉を叩かれる度に、立派に立った鬚がびりびりと痺れる。
これでは、煩くて寝られない。
仕方なく寝床から降りて、吾輩の安眠を邪魔する者の顔を見た。
吾輩の目に映るその人間は、吾輩の目にしてきたどんな色よりも眩しかった。
その者は木漏れ日に映える金色の髪と、清和にも負けぬほど美しい紺碧の瞳をしていた。
どうやら、異国の者の様だが日本語が堪能である。
背負った風呂敷を担ぎ直し、女は小屋の中へと入っていく。
その小屋はとても質素で、あるものと言えば農機具と簡易な寝床と。
窓の日差しを浴びる吾輩の亡骸だけしかない。
女は吾輩の亡骸に歩み寄り風呂敷の荷を解いた。
そして、吾輩の骸の隣に白い骨壺を並べた。
「十兵衛様、着きましたよ」
女が、主の名前を呼ぶ。
「約束通り貴方様を家に送り届けました、これが助けていただいた私が出来る唯一の恩返しです」
何かを呟いた女は、農機具を持ってどこかに向かう。
しばらく穴を掘る音を聞いていると、女が吾輩の亡骸と骨壺を持って再び外に出る。
それから半刻程して、女が小屋の中に戻ってきた。
そして農機具を片付けて、女は小屋から姿を消した。
女が去った後には、2つ墓が並んでいた。
「おかえりなさい、主よ」
吾輩は、2つの墓の間で丸くなる。
瞼を閉じた吾輩を、五月風が撫でるのだった。




