ジュリという名の猫
もう何十年も前、瀬戸内海の古い港町での思い出――――。
うちの近所には、常に5~6匹の野良猫がうろついていた。
母親、兄、そして僕が猫好きだったせいで、そんな猫たちに、気の向いた時にチクワだとか魚の骨だとかをあげたりしていた。今なら、避妊もしていない野良猫にエサをあげるなとお叱りを受けそうな話だけど、当時はごく当たり前の光景だった。
猫たちは、僕たちに気づくと飛んでは来るのだけど、決して身体は触らせてくれなかった。
そんな中、兄が1匹の若いオス猫を馴らすのに成功する。
しゅっとした顔立ちの茶トラ。あごの下だけ白いのが印象的な美猫だった。
しかし、ジュリと名付けられたその猫とは、僕はあまり遊ぶことが出来なかった。
ジュリがやって来るのは兄の部屋ばかりだったのだけど、高校生だった兄は、あまり僕を自分の部屋に入れてくれなかったのだ。
だから、たまに兄の部屋から出て来た時だけが、僕がジュリと遊べる数少ないチャンスだった。
そして、しばらくの時間が経ち――――。
僕は、重大な事実に気づく。
ジュリが、ジュリでなくなっている・・・。
しゅっとしていた顔は丸顔になっており、唯一白かった筈のあごの下の毛も赤茶色に染まっていたのだ。もちろん、顔つきも全然違う。はっきり言って、完全に別の猫だった。
最初は、兄が別の猫を馴らすのに成功して、僕をからかっているのだと思った。そのうち、「本物のジュリは、こっちだよー」と、種明かしをしてくれるものだと思っていた。
でも一向に種明かしをしてくれる様子はなく、仕方なく僕が違う猫だと指摘しても、まるで本気にはしてくれなかった。
母親に訴えても、やはり笑われてお終いだった。
近所を1人で探してみたけど、どこにも本物のジュリの姿はなかった。
やがて、高校を卒業した兄が、家を出た。
兄のものだった部屋は僕のものとなり、当然、その部屋に出入りしていた猫と過ごす時間が増える事になった。
猫が入れ替わったと言いながらも、猫好きだった僕は、その猫とも仲良しになった。むしろその頃には、ジュリが大人になったせいで、ほっぺが丸く膨らみ、あごの毛の色も変わってしまったのかなと思うようになっていたぐらいだ。
いつの間にか、その猫をジュリと呼ぶのにも抵抗がなくなっていた。
ジュリもずいぶん僕に懐き、勉強中は真夏だろうと常に僕の膝の上に寝そべり、夜は布団の中に入って来て、僕の腕を枕にして眠っていた。朝になると、いつも僕が布団から蹴り出されていて、ジュリが布団の真ん中で枕に頭を乗せて眠っていたのは、不可解だったけれど。
そうして、1~2年の日々が過ぎ――――。
ある日、ジュリと一緒に部屋にいる時に、窓の外で猫が鳴くのが聞こえて来た。
まだ近所には何匹かの猫がいて、エサを期待してやって来る事が多かった。どの猫が来たのかななんて思いながら、窓から顔を出した僕が見たのは、僕の顔を見てトトッと近寄って来ようとする1匹の茶トラの猫。
しゅっとした顔立ち。あごの下の白い毛。
そう。それは、間違いなくジュリだった。本物のジュリだった。
「ジュリ!」
思わず僕が叫ぶのに、ジュリも嬉しげに返事をしてくれた。そう、見えた。
が、その時。
窓から顔を出したジュリが――――いや、ずっとジュリだと思っていた猫が、「シャー!!」と、鋭くジュリを威嚇した。
ピタリと止まるジュリの足。
僕は、ジュリと呼ばれていた猫を部屋に押し戻しながら、「いや、ジュリ、違うから!」と、浮気現場を押さえられた間抜け男の様な言い訳をしようとする。
でも、ジュリはパッと身を翻すと、そのまま去って行ってしまった。一度も振り返る事もなく。
「ジュリ~~~!!」僕に出来たのは、その背中に虚しく呼びかける事だけだった。
それきり、本物のジュリは二度と姿を現さなかった。
過去、2匹の猫がどういう経緯で入れ替わったのかは、分からない。出来れば、ジュリを部屋に迎え入れてやりたかった。
でも、もうどうしようもない話だった。
ジュリは去り、もう1匹の猫が残った。その事実は、もう覆らない。
ジュリを追い返して得意げな様子の猫。一度だけその頭をはたいてから、僕はいつもの様に抱き上げた。
僕の腕の中で目を細め、グルグルと喉を鳴らす猫に頬ずりをしながら、「仕方ない。お前も間違いなくジュリだもんな」と、僕は小さくつぶやく。
ジュリは僕の顔に頭をこすりつけながら、どこまでも満足そうに喉を鳴らし続けるのだった。




