父の気遣い
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「公爵様、お願いですから遠征に行ってください!」
そう言って、頭を下げるのは秘書官のユリウスだった。
床に頭を擦り付けるような勢いで懇願する彼は、早くも涙目になる。
『何故、いつもこんな役回りばかりなんだ……』と項垂れる彼を前に、父はヘアブラシを手に取った。
「却下だ。今は娘の髪を結うので忙しい」
膝の上に載せた私を片手で支えつつ、父は優しく髪を梳く。
本来であれば、ヘアセットは侍女の役目なのだが……父が『たまには、いいだろう』と言って、交代した形だ。
まだ始めて二十分も経っていないのに、ハーフアップやツインテールなど様々な髪型に挑戦しているわ。
しかも、全てお上手。初めてとは思えない。
『手先が器用すぎる』と感心する中、ユリウスは執務室に置かれた手紙の束を指さす。
「見てください、アレを!あの手紙全部、皇室からですよ!?」
「だから、どうした」
「ここ最近、あちこちで魔物が頻出しているんです!だから、早く討伐を……」
「そんなもの自分達でやれ、と伝えろ。私じゃないと、討伐出来ない訳ではないのだから」
私の髪を低い位置で二つ結びにした父は、『私の知ったことではない』と冷たく突き放す。
その途端、ユリウスは床に突っ伏した。
「もぉぉぉぉおおおおお!!!何で今回だけ、そんなに頑ななんですか!公爵様と皇室の板挟みになる私の気持ちにも、なってくださいよ!」
我慢が限界に達したのか、ユリウスはまるで駄々っ子のようにジタバタと手足を動かす。
が、父はスルー。顔色一つ変えなかった。
黙々と髪飾りを装着していく彼の前で、ユリウスはピタッと身動きを止める。
「……やはり、デビュタントの件が尾を引いているみたいですね」
二週間前に行われた皇室主催の行事を話題に出し、ユリウスは一つ息を吐いた。
かと思えば、おもむろに身を起こす。
「あの件に関しては、正直私も腹を立てています。ベアトリスお嬢様にあれほど怖い思いをさせたのですから……でも」
そこで一度言葉を切ると、ユリウスは真っ直ぐにこちらを見据えた。
「その割を食うのが、民というのはいただけません。皇室に抗議するなら、もっと別の方法を……」
「そんなことは分かっている」
執務机に並べられた宝石の数々を眺めながら、父はスッと目を細めた。
かと思えば、優しく……どこか労わるように私の頭を撫でる。
「私はただ────ベアトリスの傍から、離れたくないだけだ」
デビュタントの一件で情けない姿を見せてしまったせいか、父は酷く私のことを心配しているようだった。
『まだ情緒不安定だろうから、手の届く範囲に置きたい』と主張する父に、私もユリウスも目を剥く。
まさか、そこまで気を遣わせているなんて思わなくて。
そっか……だから、最近ずっと傍に居てくれたのね。
事ある毎にスキンシップを取ったり、何気ない一言にも反応したりしてくれた父のことを思い返し、私は頬を緩める。
父なりに私のことを元気づけようとしていたのかと思うと、凄く嬉しくて。
でも────
「もし、私のことが気掛かりで魔物の討伐を断っているならどうか行ってあげてください」
────父の足枷には、なりたくなかった。
「確かに私はまだ頼りないし、お世辞にも一人前とは言い難いですが、ここには皆が居ます。だから、大丈夫です」
後ろを振り向いてニッコリ微笑み、私は自分の体を支える父の手にそっと触れた。
すると、父はピクッと反応を示す。
こんな風に仕事へ口出しするのは初めてだからか、少し驚いたようだ。
公務についてはさっぱり分からないから、あまり関与しないようにしていたのよね。
下手に口を出すと、お父様やユリウスが迷惑すると思って。
でも、私のことが原因で仕事を見送っているなら話は別。
ここはしっかり主張しなきゃ。
「それにお父様のおかげで、私はすっかり元気になりましたから。たくさん一緒に居てくれて、ありがとうございました」
うんと目を細めてそう述べると、父は自身の腕に載った私の手を優しく握る。
「分かった。ベアトリスがそう言うなら、行ってこよう。でも、これだけは訂正させてくれ」
そう前置きしてから、父はコツンッと額同士を合わせた。
「ベアトリスの傍に居たのはもちろんお前を慰める意味合いもあったが、それ以上に────私がお前の傍に居たかったからだ。娘と過ごす時間ほど、幸せなものはないからな」
『おかげでここ二週間、とても満たされた』と語り、父は僅かに表情を和らげる。
真っ青な瞳に、これ以上ないくらいの愛情を滲ませながら。
「ユリウス、サンクチュエール騎士団に今すぐ出立の準備をするよう伝えろ。三日後、ここを立つ」
「畏まりました」
慌てて立ち上がり、背筋を伸ばすユリウスは何故か敬礼する。
そして優雅に一礼すると、執務室から飛び出していった。
三日後となると、本当に時間がないからだろう。
「ベアトリスは部屋に戻っていなさい」
軽く結んだ位置を調整してから私を下ろし、父は執務机に向かう。
恐らく、今のうちに書類仕事を片付けるつもりなのだろう。
「分かりました。何かお手伝い出来ることがあれば、言ってください。それから、出立のときはお見送りしますね」
────と、告げた三日後。
夜明け前から急いで身支度を整え、外に出た私は遠征へ行く父とサンクチュエール騎士団を見送った。
徐々に小さくなっていく後ろ姿と馬の足音を前に、『今回はちゃんと起きられた』と安堵する。
お父様は『そんなもの必要ない。しっかり寝なさい』と言っていたけど、今回は通常よりずっと長い遠征になるから見送れて良かった。
『今回もまた無事に帰って来てくれるといいな』と願いつつ、私は自室へ戻る。
そこでいつもより早い朝食を摂っていると、不意にルカが顔を上げた。
一緒にサラダを食べていたバハルも、急に動きを止めてピンッと耳を立てる。
「この気配はまさか……」
困ったような……訝しむような反応を見せるバハルは、私の膝に飛び乗った。
────と、ここで部屋の外に待機していたイージス卿が勢いよく扉を開け放つ。
と同時に、ベランダへ駆け寄った。
「ちょっと精霊に似た気配ですね」
独り言のようにそう呟きながら抜刀し、イージス卿はサンストーンの瞳を細める。
その横で、ルカは頭を抱え込んでいた。
「嗚呼、クソッ……あいつは『待て』も出来ないのかよ」
悶々とした様子でそう吐き捨て、ルカは眉間に皺を寄せる。
と同時に────フードを被った何者かが現れた。
黒いローブに身を包むその人物は、イージス卿からの剣撃を軽く躱す。
それも、必要最低限の動きで。




