第九話 回想 黒豹の獣人
人は普遍的な価値観を一つ以上、心の中に持っている。そうでもしないと進むべき方向を見失ってしまうからだ。そうなれば無駄に彷徨うか不安で立ち止まる方法しか思いつかないだろう。だからこそ何かを信じずにはいられないのだ。それは現代において資本主義であったり社会主義であったりする。過去の歴史を紐解くと勢力を伸ばした大王が国民の反発を抑えるために己を神格化させ体制を安定させた例も数多く存在する。言うなれば人は何だって信じる対象にしてしまう臨機応変で柔軟な動物だという事だ。
それを国から更に一つの地域に細分化すると見えてくるのは固有の文化と土着の宗教だ。そこには他者の理解の及ばない彼らだけの真実が隠されている。黒豹の獣人もそう言った民族の一つだ。
昔、彼らの祖先は島で暮らす閉鎖された環境で暮らしていた。故に固有の文化を育むための時間を長い間設ける事ができたのだ。豊かな森林と海の恵みが豊富な土地柄であり食糧資源にめぐまれていた。ただ自然の猛威には逆らえない。運悪く命を奪われる事はよくあった。
そんな不安の募る日常に未来を予言する占いが浸透するのは必然の事のように思える。山に狩りに行くにしても、海で漁をするにしても愛すべき人が無事に帰ってきてくれるのが家族の一番の願いなのだ。
もちろん占いが的中するなど五分五分かそれ以下の確率でしかない。曖昧で抽象的な助言ならまだしも的確にいつ誰が何をするかなど完璧に言い当てる事は普通はできないのだ。初めは多種多様な方法で行なわれていたそれもある出来事をキッカケに一つに絞られる事になる。その要因となった女は突然現れた。
満月の夜、波のない静かな海にその月が映し出されていた。女はその中心で沈む事なく海面に立っている。漁師がその美しい姿に目を奪われたのはその神秘的な偶然が重なったからなのかもしれない。けれど自分達とはまるで違う体毛のない体と足元まで伸びる長い頭髪。そして青い皮膚。それは海に住む妖の類か。はたまた海の女神か。その女は黒豹の獣人に告げた。
「明日。太陽が空の真上に昇る時、大地は怒りに震え、海は天を目指して立ち昇りこの島を飲み込む。…明け方に山を登るといい。山の神がお前達を匿うだろう」
それは物議を醸した。騙されてはならないと忠告したのはその当時、最も勢力を伸ばしていた精霊使いと呼ばれる占い師一族であった。彼らの長は偉大なる大地の大精霊と海の大精霊をその身に憑依させお告げを代弁するという方法で信者を集めていた。殆どの者がその言葉を信じ、その漁師を悪魔憑きと言って縄で縛り上げた。
けれど夜遊びをしていた若者の集団はその女とのやり取りを一部始終観ていた。遠くで何を話しているかまではわからない。しかし彼らが目にしたのは紛れもなく神秘的で神がかっていた。それはどれ程の権力と威厳を持った占い師であろうとも、自信満々に未来の行く末を占う素振りをしようとも、その発言を霞ませるだけの迫力と興奮に溢れていた。
彼らは経済的な力も知識も浅い若さだけを持った血気盛んな若者だ。激しい刺激に飢えている。更なる刺激を求める好奇心が彼らの真実を揺るがす。ただその先が観たかった。
漁師は夜な夜な逃げた。朝になって初めて発覚したのだ。その痕跡から何者かが助けたのは間違いない。けれど行き先はわかっている。精霊使いの長は猛者を集めて追手を放つ。我が一族の覇権を揺るがす異分子は極力抹殺せねばならない。その他の宗派もいずれ潰す計画だ。この件をきっかけにあらぬ疑いをかけてやれば、もしかすると全て悪魔憑きとして一網打尽に出来るやも知れぬ。非情にもこの男は欲に溺れ人々を死に追いやる計画を目論んでいた。
そして昼前に若者達と漁師はその家族を連れてこの島で一番高い山の半分程まで来ていた。もうすぐで陽が真上まで昇る。もう体力が限界に来ていた。これ以上は体調を悪くする者も出て来るだろう。しかし追手は早かった。ブォーンという大笛の音が聞こえる。それは罪人を追い詰める時に使うものだった。
皆その場で跪き、手を合わせて神に祈る。漁師はあの女に言われた通り山の神に助けを求めた。
「嗚呼、山神様よ。どうか弱き我らをお救いください。どうか助けてください」
そしてその時が来た。体が微かに揺れる。それは地震である。しかしそう珍しいものではない。幼少の頃から殆どの者が体験する。けれどそんな軽い程度で済むものでは無かった。
突然体が跳ね上がるような強烈な揺れが襲ってくる。家族で集まって抱き合い恐怖と揺れに耐えた。それが治るとまた数分して何度か揺れる。けれど遂には止んだ。
辺りを見回すと他の山肌は土砂崩れが起きて大変な事態になっていた。けれど自分達の所は奇跡的に無事であった。山の神が助けてくれたのだろうか。
この場で生き残った者達は安堵と共に泣いて喜んだ。しかしまだ安心するのは早い。女はその次を予言していた。漁師は海を見た。その地平線からこちらに向かう恐ろしく大きな波の壁をその目に焼き付けるのであった。




