第二十四話 猿神の王ヴァーユの試練
獣人は森を去った愚かな神獣。悪魔に唆されて掟を破った。その末に神が罰した姿だと言われている。神話に登場するその悪魔の姿を芸術家は魔人を模写して描いた。教会にはそのシーンを切り撮ったような壁画がある事が多い。聖職者は巡礼する信者に必ずそれを見せ人類の罪と罰を説き人々を説教する。獣人は全ての罪を償い、やがて死を迎えると再び神獣に生まれ変わり本来の美しい姿を取り戻す。そこには全ての苦しみから解放された真の自由が待っている。その為に人は労働を行い富を稼ぐ。しかしその財産は肥太る為に在らず。教会に寄付し世の苦しむ同志をより多く救う為に使うのです。大陸の殆どの国でそう教育されている。
大陸で最も布教に成功したこのラムスダ教は魔人を目の敵にする事で大幅にその勢力を伸ばした歴史を持つ。各国で多少の個性はあるが基本は同じである。そしてシータも敬虔な信者とまでは行かないがそんな国に生まれた。故に神聖な存在と言っても過言ではない猿神からの誘いを断ることなどない。聖職者になる夢を描いたことはないが苦しみからの解放と言う誘惑が彼女の信仰心を惹きつけた。
猿神の王ヴァーユにとって彼女の信仰にさほど興味はない。人か布教する神話と神獣の知っている真実は別のものと言って良いだろう。
ヴァーユはただ、シータの秘める潜在能力を見出し運命の流れを微かに感じた。その勘に従い彼女を試している。そして肉体をこのラヤカーンの地に置き。精神だけを異次元に飛ばしてやったのだ。そこでは全ての障害が取っ払われ純粋に己自身と向き合う事になる。シータがシータに問う
(何で無謀な道を選んだの?家に帰って家族の手伝いをした方が良いんじゃない?)
ごもっともだ。
(このままじゃ結婚もできないよ。ずっとあの人について行く気?どうやって生計を立てるの?)
確かにそうかも知れない。
(今は若いかも知れないけど、婚期を逃して貰い手が誰も居なくなったら子供はどうするの?産まないの?)
いつか子供は産みたい。
(一目惚れなんてただの衝動的な感情だよ。冷めたら何も残らないよ?後悔するよ?)
……。
シータは精神的に追い込まれた。一体幸せとは何なのか。沢山お金を稼ぐイケメンの旦那と結婚して、良い家に住んで、可愛い子供を産んで、働かなくてもなんでも買えて、友達や親戚に羨ましく思われて、優越感に浸って生きていく。それも悪くない。
けれど本当の幸せはどこにある。何のために結婚する。何のためにお金を沢山稼ぐ。何のために友達や親戚と付き合いを持つ。何のために。
それは一つの方向に向かっていたのでは無かろうか。神が言った「全ての罪を償うと真の自由が待っている」。教会は結論だけ言えばそう教えている。結婚もお金も人付き合いも全てそこに繋がっている。それはわかる。けれど皆が羨むような最大級の幸せは居心地の良いように思えないのは何故だろうか。
沢山お金を稼ぐことを伴侶に全て背負わせて当たり前のように暮らしている妻の像を愚かと妬み、そうでない者を仲間にする。逆の立場の貧しい人は清く慎ましく生きるのが良い。そういうイメージを広める。お互いがお互いに対して確認作業を怠らない。傷の舐め合い。「誰のおかげで飯が食えるんだ」と父や夫が言うだろう。対等な立場にいない夫婦に本当の幸せは訪れない。豪邸に住んで豪華な装飾を着飾り子供に高等教育を習わせる。側から見て誰もが羨むような生活を追い求めるのは幸せだろうか。それは本当に自由だろうか。
早くから結婚して子供も授かった地元の友達は今が一番幸せと言う。けれど自慢話が終わるとすぐに不幸話を始める。旦那の稼ぎについてやその親戚関係、子供が大きくなったらまた働かなくてはならないなど、愚痴が尽きない。
幸せとはもっと別の次元にあるような気がしてならなかった。けれど皆と違う方向を向いてると、よくわからない不安が押し寄せて来る。それが怖くて急いで結婚に走っていた。けれどそこから飛び出してほんの少しだけ外の世界を見た。
貿易で何とか栄えていた地元はまだマシだ。世界はまだ飢餓や紛争や宗教の対立が横行し国民は苦しんでいる。そんな人々は口を揃えて楽になりたい。自由になりたいと心の底から言うのだ。それは安直な考えだと思われるかも知れないがその言葉に真実と人の本質が詰まっている気がした。
だから思う。人はどこまで行っても自由を自覚しなければ幸せになれない生き物なのでは無いかと。皆自由を羨み、自由を求めて彷徨っている。だがそれを別の何かに囚われてそこからそれを得ようとするが方向が間違っていたとしても一度見失った真実は中々見つける事が難しいのではないだろうか。
シータは試されている。揺るぎない精神と黄金の魂を持つ英雄か。はたまた大多数の凡人か。ただ愚か者にだけにはあって欲しくない。猿神の王ヴァーユはそう願い見守るのであった。




