愛、故に
二話連続更新のこちらが二話目です。お気をつけください。
『何故だ……何故そんなことが……何故っ』
何度聞いても魂を揺さぶられる、怒りと悲しみの入り混じった怨嗟の慟哭。
やってきた彼は昨晩よりも黒いオーラのようなものを多く噴き出している。園長先生から情報を得た今、その顔は恐ろしくも何処か悲しげに見えた。
そんな怨霊魔となりかけているチキナに、園長先生は躊躇うことなく歩み寄っていく。
「チキナさん、何がそんなに恨めしいのです」
責めるわけでも咎めるわけでもなく、ただ優しく語りかける声。
そんな園長先生の声に反応して振り向いたチキナの顔には、恨みだけではなく躊躇いが見える。
『誰だ……あの女の……仲間かっ』
「いえ、私はただ、貴方のお話が聞きたいだけです。彼女に伝えたいことがあるなら、私が責任を持って伝えます。チキナさん、貴方は彼女に何か伝えたいことがあるのではないのですか」
『伝えたいことだと……はっ、俺はただ……あの女とその周りの、俺を嘲笑い騙していた奴らを……殺したいだけだっ!』
怒りの感情を吐き出しただけだというのに、全身から強烈な風が吹き出し、砂埃が舞い上がっている。近くに来ていた魔物たちが、怯えたように離れて行く程の怨みの力。
「それをお聞かせ願えませんか。どうせなら、貴方の想いを彼女に知らせて、恐怖のどん底に叩き落としてから、殺害した方が恨みも晴れると思いますよ」
え、園長先生? にこやかな笑顔で何てことを口にしている。これが駆け引きとしてやっていることぐらい理解できるが、それにしても淀むことなくさらっと言い放ったな。
『なるほど……それは面白い……なら、聞かせてやろう……何故、ここまであの女を怨むのかをっ!』
乗ってきたか。事前に園長先生が言っていた通りだな。
「恨みを残した魂は、誰しもそれを誰かに聞いて欲しい、知って欲しいと願っています。苦しんで死んだ人は、その苦しみを知って欲しいが故に、怨霊魔となり人を苦しめて殺すのです。彼も本心ではその苦しみを誰かに知って欲しいと願っている筈です」
園長先生の予想通りに事が運んでいる。あとは彼の本心を聞かせてもらうだけか。
『俺は売れない画家だった。だが、認められもう少しで栄光を掴める直前だった。それまでは何かと彼女に苦労をかけ通しで、これでようやく彼女を幸せにして上げられる。これから幸せな家庭を築いていける』
語るチキナの顔からすっと怨みの表情が抜け落ちた。過去を懐かしみ、口元に苦笑いすら浮かべている。
『そう思っていたんだ。幸せな未来予想図に胸を弾ませ、来るべき個展に向けて骨身を削り俺は絵を描き続けた。やっと彼女を楽にして上げられる。きっとこの先には素晴らしい世界が待っていると信じて……俺は最後の絵を描き上げた。全ての準備が整った俺は仕事場から彼女の待つ家に帰ったんだ』
ここまでは心が温まる物語だ。貧乏画家が幸せを掴むサクセスストーリー。よくある題材と言ってしまえばそれまでかもしれないが、恨む要素など何処にもない。
『そんな俺を待っていたのは彼女の「好きな人が出来た別れて欲しい」という一言だった』
消え入るような声で呟いたチキナの顔は今にも泣きだしそうで、その辛さが見ているだけで鮮明に伝わってくる。
『頭の中に浮かぶ言葉は何故。何故、この時に、何故、今だ。確かに今までは不甲斐なく、彼女に負担を掛けていた。そのことで呆れられ捨てられるのであれば理解できる。だが、何故、幸せを掴めるかもしれない今、何故、この最高の瞬間を塗りつぶすような絶望をぶちまけたのかっ! 俺には俺にはわからなかったっ!』
仰け反り天に向かって吠えるチキナの姿は痛々しく、胸の奥を鷲掴みにされたような苦しみを俺も味わっていた。
『幸福から絶望。混乱と憎悪と懇願。ありとあらゆる感情に侵されそうになったが、何とか俺はそれを抑え込んだ……今までの自分に非があったから。だが、彼女の説明を聞いて、俺は理性が吹き飛びかけたっ。その男とは前から仲良くしていたが、付き合うきっかけになったのは、数日前に自宅で開いたパーティーの席だと言うじゃないかっ! 俺は忙しくて参加できなかったが、自宅に友人を呼んで騒いでもいいかという懇願に快く頷いた。彼女は魅力的だし、参加する友人に男が多いことには正直嫉妬もしたが、彼女が喜んでくれることだけを願い、承諾したんだっ!』
ああ、そうか。彼が何に絶望したのか見えてきた。ここは、口を挟むような場面じゃないよな。彼の想いを全て吐き出させてやるべきだ。
『そのパーティーに参加していた奴らは全員、俺の愚痴を零す彼女の話を聞いて、そんな男捨てて、こいつにしたらどうだって、ずっとそそのかしやがったんだ! その方が幸せになれるってな。俺はそんなことも知らずに部屋を掃除して飾り立て、笑顔で彼らを家に招き、わざわざ別れる後押しをしたんだ。滑稽だろ……振られる為の舞台を自ら整えた……』
掛ける言葉が見つからない。正直、この話は男の一方的な言い分なので、事実とは異なることもあるかもしれない。それでも、その悲痛さは本物だと確信できた。
『俺は感情を殺した。ほんの数日前まで、そんな素振りも見せず普通に接していた彼女の全てが嘘だとは思いたくなかった。大切な人を嫌いになりたくなかった。口を開くと罵倒してしまいそうだった俺は、身を引いて家を出た……一晩眠れぬ夜を過ごし、もう、恨み言も言わずに忘れ物だけを取りに行こうと、夜に彼女の家に戻った俺が見たのは……新しい男と楽しそうに家で過ごす彼女の姿だった』
そこまで語るとチキナは天を仰いだ。そこには漆黒の闇が広がっているだけで、星一つ見えることはない。
『何故だ、何故そんなことができるっ! あの家具も食器も雑貨も共に選び買い揃えた、そんな物たちや大切な思い出が数年分詰まった部屋に、別れた次の日の夜に男を呼び込めるっ! 何故、男も土足で思い出を踏み潰しながら笑顔で愛を囁けるんだっ! 奴らに人の心は無いのかっ! 教えてくれっ、頼むから誰か教えてくれっ! 何故、そんな酷い事を平然とやれるんだっ! 俺には理解できないんだっ! そこまでされないといけない程の罪を俺は犯したのかっ! 頼むから教えてくれ……頼むからっ』
彼の嗚咽交じりの叫びに応える術を俺はもっていない。話せる口があったとしても、そんな経験をしたことのない俺が言えることなんて何もない。
「当人ではない私には残念ながらわかりかねます。貴方はその恨みを彼女にぶつけたいのですか」
静かに語る園長先生の声を聞き、男は怒りに顔を歪ませ大口を開く。
『当たり前だっ! 俺はあの女に、この苦しみを与える為に呪い死んだんだっ!』
「本当にそうですか。貴方は何がしたかったのですか。本当に怨み呪う為だけに現れたのですか」
『そうだっ!』
断言するチキナに向かい、園長先生は一枚の絵を差し出した。そこには優しく微笑む一人の女性が描かれていた。
「この絵は貴方が死んだ当日、彼女の家の前に置かれていた肖像画だそうです」
これが渦中の人であるシーミという女性か。儚げで地味な印象はあるが素直に美しい。そう思える肖像画だった。この絵を描いたチキナの溢れんばかりの愛情が込められた、見る者が思わず微笑んでしまうような幸せに満ちた作品だった。
『その絵はっ……ああ……そうか……あの日、自分の非を認め最後に……今までの感謝を込めて描いた絵だけは受け取ってもらおうと、家を訊ねたのか……そして、あの場面を目撃して……ああ、そうか……あの時、落とした絵を彼女に……怨みはあった。でもそれ以上に自分の不甲斐なさを嘆き俺は死んだんだ。あの温かい光景を守れなかった自分の愚かさに』
「怨霊魔というのは、強い想いを抱く者の魂に取りつき憎悪を増幅させ自害させ、怨霊魔として生まれ変わらせるのです。だが、その憎悪をもってしても貴方の本当の想いを塗りつぶすことはできなかった」
そうか……そうなのか。人の色恋沙汰に口を挟める程、人生経験が豊かではなかった俺だが、チキナが怨み妬み殺したいと無念は理解できたつもりでいた。だけど、そうじゃなかったのか。
「チキナさん。もう一度問います。貴方は何がしたかったのですか」
『俺は……』
「はい、どちら様でしょうか」
「シーミ様からの依頼を受け、ハンター協会からやってきた者です」
朝を迎え、宿屋の真ん前にある民家を園長先生が訪ねている。俺は最後までしっかり見届ける為に園長先生の横に並んでいた。
扉を開けた女性――シーミが俺を見て目を丸くしている。玄関開けて自動販売機があったら現代日本でも驚くだろうな。
「ええと、この箱は宿屋前に置いてある魔道具ですよね」
「はい。意思ある魔道具ハッコンさんです。それはさておき、依頼の件、無事完遂しましたのでご報告を」
その言葉を聞いたシーミが胸を撫で下ろしている。
「そうですか、ありがとうございます。私に言う権利はないのかもしれませんが、これ以上あんな姿を見ていられなくて」
「ちゃんと迷わずこの世を去られましたよ。あと、この肖像画は返しておきますね」
「あ、いえ。私にはこれを受け取る権利はありませんので……」
そう言って肖像画を押し返そうとした彼女を見て〈液晶パネル〉に輪郭が薄れていく彼を映し出した。
『シーミ、すまない。本当に迷惑ばかりを掛けた。捨てられて当たり前の生活をさせていたくせに、降ってわいた幸運に舞い上がり、あの時の俺は何も見えていなかった。友人の言い分だってもっともだ、収入が殆どない俺を心配するのは当たり前だよな。何度も俺に、このままの生活じゃいずれ駄目になる。堅実に働きながら夢を追うことだってできる。個展を開いても今後上手くいくとは限らない。って言っていたのに聞く耳を持たなかった。今なら、その言葉を素直に受け止められるよ。本当にごめん。あの日、肖像画と共に君に伝えたい言葉があったんだ。だから、遅くなったけど受け取って欲しい。今までありがとう、幸せになってくれ』
彼女の頬を涙が伝い、肖像画を抱きしめたまま膝から崩れ落ちる。
これを録画してから直ぐに、彼は俺たちに深々と頭を下げて消えていった。最後に見せた顔は吹っ切れた満足そうな顔だったのが印象的だった。
自動販売機が恋愛を語るなんておかしな話だが、今回の一件は一概にどちらかが悪いということではないのだと思う。彼も今まで負担を掛けていた、彼女はその事について何度も忠告をしてきた。いつしか歯車が外れお互いが勝手に回りだし、最悪な結果を招いてしまった。
「自分の心すらわからないのに、他人の心を完全に理解することは誰にもできません。ですが、相手の立場に自分を置き換え、思いやることが出来るかどうか。それだけの話なのだと思いますよ」
園長先生の言葉がすっと鉄の体に浸透する。さりげない話し方だというのに、思わず感じいる程の説得力があった。きっと俺なんかが想像もつかないぐらい様々な経験をしてきたのだろう。酸いも甘いも乗り越えてきた年長者の言葉は重みが違うな。
「ハッコンさんは姿形こそ私たちとは異なりますが、人として最も大切なのは心です。孤児院で見せた、その優しさを忘れずにいてくださいね」
「ありがとうございました」
自動販売機の体を持ち、人の意識が宿る。肉体を失ったからこそ、心だけは人でいたい。そう思わずにはいられなかった。
顛末を見届けて思うことは……無性にラッミスに会いたくなった。無邪気な笑顔で微笑んでくれる、彼女の顔が唐突に頭に浮かぶ。
あの笑顔だけは、この身に代えても守り抜かないとな。




