審判から世界へ
彼女の手には、古びた皮表紙の手帳が握られていた。何回もめくられたらしく、ページの端にはわずかに色がついている。
怜香は手帳をめくった。
好み:食が細く、放っておくと馬の餌のようなものばかり食べたがる。肉と魚は多少強引にでも摂取させること。
就寝:寝起きは最悪。起きてすぐは混乱がみられるため、重大な報告は避けること。
習慣:突然なにもないところで立ち止まり、不穏なことをつぶやき出すことがあるが、何か思いついただけなので放っておくこと。
内容を読みながら、怜香は笑い出してしまった。誰についての取り扱い説明書なのか、一目で分かる。
「よくここまで細かく作られましたね」
「あなたでしたら必要ないかもしれませんが。良くも悪くも極端な方ですから、作りやすうございました」
トヨはさらりと言う。聞けば、兄弟全員分、これと同じ物があるのだという。
「いつか良い人が見つかったときにね」
「そこまで」
「知らないよりは知っていた方が、何事もうまくいきますから」
「過保護……じゃありませんか」
「ババアはそういうものです」
トヨは晴れやかに笑った。怜香は手帳を胸に抱いて、うなずく。
「ありがたくいただきます」
「坊ちゃまはなかなか難しい方ですからねえ」
「うちの希望の星も、トヨにかかっちゃ形無しだな」
横から不意に、男の声が割り込んできた。見ると、温室から猛が顔を出している。彼は大量の青草を持っていた。
「あら猛坊ちゃま、また毛虫に餌やりですか」
トヨはたちまち不満そうな顔つきになる。猛はまあまあ、と彼女をいなした。
「いいじゃねえの」
「良くありませんよ。そもそも一番先に済むはずの方が、このていたらくでどうなさるんです」
「十人もいるんだから、あと二人か三人結婚したらそれでよしとしろよ」
「そんなこと言ってたら、結局誰もしないんですよ。トヨはようく存じあげておりますともッ」
「はいはい……」
「トヨよ。都はちゃんとお嫁に行くゆえ、にーにをいじめんでやってくれ」
一方的に攻撃される兄が気の毒になったのか、都が割って入った。
「あら、都様の花嫁姿は、さぞやかわいらしゅうございましょうね。トヨがごちそうを作りますよ」
「ふへへ……ごちそう……」
トヨと都はほのぼのしている。怜香は結婚式の様子を想像してみた。
何度考えても、新郎に向かって『ぶっ殺してくれる』という視線をぶつけている巌の姿しか浮かばない。……その時はその時で、大変そうだ。
「俺は日本にいなかったから、君の過去の扱いはほとんど見てない」
トヨと都が盛り上がっている横で、猛がぼそっと言った。
「はい」
過去と言えば、自分の父が逃亡した時のことだろう。
「その時は、正直何でお前が軍にいる、と思っていた奴もいるかもしれん。面白くない物言いをされることもあったんじゃないか」
はいともいいえとも言わず、怜香はあいまいに笑った。
「だが、今回は違う。葵が腹をくくったというんで色々調べてみたが、悪し様に言う奴はほとんどいなかった──少なくとも、表立ってはな」
人が心の中で何を考えているかなどわかりはしないし、そこまで制限などできない。
ただ、悪口を控えるようになったということは、『それが自分の不利につながる』と判断するものが増えた証拠。怜香の立場が、それなりに上がっているのだ。
「……まだまだ、未熟ですが」
慎重に言葉を選んで怜香が発言すると、猛がにやついた。
「完全にゼロにはならねえよ。ただ、嵐は弱まった。ま、やりたいようにやってみることだな」
「はい」
これからも、戦いは終わらない。それでも、自ら勝ち取ったものは色あせない。最後に怜香が見る景色は、どれほど面白いものになっているだろうか。
山盛りの青草を抱えて去っていく猛。それを見ながら、怜香はひとつ伸びをした。
☆☆☆
空は青く、全ての人の上にある。新たな歴史が、ここから始まった。




