邪魔するな
「明るいときは……まるで己が世界そのものを支配したかのように振る舞うが……一旦その流れが変わると引きずられる。悲観し……不安にとらわれ……自分は悪くないとわめく。普段……口にしていることは忘れてな」
「そうだな」
巌はそれを否定しない。天逆毎の方が驚いて瞳を丸くした。
「……はは、認めたか」
「自分でもやらかしたことがあるもんでな」
紫がいなくなったとき。巌は自分のことを心配してくれた父にすら噛みついた。これがもし絶望した他人同士なら、もっと事態は切迫する可能性がある。
「仕方ねえさ……皆が皆、聖人ってワケじゃねえ」
巌はそこで、天逆毎をにらみつける。
「だから困るんだよ……今ここで、てめえが出てきちゃ」
いくら手傷を負おうとも、相手は神とまで呼ばれた大妖だ。並の使い手なら、最初の一発であの世行きになっている。周到な準備をした京といえど、もし街に着けば虐殺が行われることは間違いなかった。
人間はどうしても、『自分に落ち度がなく』『積み上げてきたものが崩された』時に弱くなる。まつりが守った街を内部崩壊させないためには、絶対にここで天逆毎を食い止める必要があった。
「世の中……信じられねえこともあるし……救えねえ奴もいるさ。けど」
巌はもう一度、天逆毎を見る。今度は彼女が、ひどく小さく感じられた。
「それでも……やったことが無駄じゃなかったとさえ思えれば……人間は何度でも立ち直る」
街は襲われた。でも、誰かが助けに来てくれた。
死人は出てしまった。でも、用意していたおかげで予想よりずっと少なくて済んだ。
そういう細かな『でも』の詰み重ねが人を支え、街を支え、国を支える。自分はきっと、その手伝いがしたくてここまで来たのだ。
「本当はな……犠牲なんか出ねえのが一番いいんだ。でも今は、そういう状況じゃなくなった」
もうことは起こってしまった。なかったことにはできない。──残された道は一つ。できるだけ早く、立ち上がることだった。
「だから、なあ」
ようやく首締めの衝撃から立ち直った巌は、構えをとる。
「立とうとしてる奴の、邪魔すんじゃねえよ。クソババア」
「ほざけ!」
天逆毎も、巌とほぼ同時に立ち直った。気炎を上げ、両手を大きく広げる。
巌は体をひるがえし、殴りかかる。天逆毎の口元が、かすかにつり上がった。
彼女の正拳が、巌めがけて放たれる。しかし巌は、ぎりぎりのところで伸ばしかけた腕をひっこめた。天逆毎が息をのみ、ひっと小さな音をたてる。
彼女が姿勢を変える前に、巌は左手で相手の腕を捕まえる。天逆毎は振り払おうとするが、巌はこらえた。
全身の血液が、頭と左手に集まっている気がする。永遠にも思える綱引きが、しばらく続いた。
やがて巌は、確かな手応えを感じる。天逆毎の体が、ついにじりじりとこちらに向かって引き寄せられてきたのだ。
(来い)
巌は心の中で叫んだ。
(来い!)
二度目に強く念じた時、天逆毎の体が巌の間合いまでやってきた。
すかさず巌は右腕を出し、天逆毎の膝をつかむ。ほとんど肉が残っていない、鳥のような足を思いきり引っ張った。
天逆毎がよろめく。巌は勢いのままに、彼女の巨体を地面に向かって引き倒した。
☆☆☆
しまった、と思ったときには、大抵のことはもう手遅れになっているものだ。天逆毎が数多の存在と違うのは、そうなったとしても自力で逃れ続けてきたということである。
(それなのに、何故だ)
地面に叩きつけられてもなお、天逆毎の頭の中では疑問が渦巻いていた。
(そもそも、なぜあの時妾は手を出してしまった?)
三千院も自分も熟練者だ。一発で倒れるようなヤワな鍛え方はしていないし、攻撃の返しかたもよく知っている。だから、先にしびれを切らして攻めに来た方が不利になるのだ。
(あいつは始めから、妾をひっかけるつもりだった……わかっていたのに)
考えても考えても、思考は同じところをぐるぐる回る。そこへ、強烈な痛みがやってきた。
天逆毎の目が、はっきりと周囲の景色をとらえる。自分の上に、あの忌々しい三千院が馬乗りになっていた。
「がっ……」
「おー、すまんすまん。しかしここでないと、膝のすわりが悪くてのう」
「この、くそジジイ……」
三千院は淡々とした顔のまま、天逆毎の傷口に膝を突き立ててくる。完全に地面に固定された形の天逆毎は、苦悶の声を漏らすしかなかった。
「思ったよりあっさり引っかかってくれて助かったわ。やはり、得意な間合いに敵が来ると反応してしまうのが生物のサガじゃな」
天逆毎は歯噛みした。今まで道を開くために頼りにしていた武器が、ここに来て足かせになるとは。
「やはり、あのデカブツのためにか」
巌が言った。
「……分かるまいよ。貴様には」
友愛も情けも、誇りも誇りも忠節も。全ては些細なことと切り捨てて、一つの目的のために。
それは誰の思いも関係なく、自分自身で決めたこと。だから最後の最後まで、諦めるつもりなど無かった。
「くぬっ……」
横倒しから逃れるには、三千院の膝を落とす以外無い。しかしいくら指を食い込ませても、全く手応えがなかった。
「な……」
「不安定な体勢ならともかく、そんなもんで動くはずなかろう。あと、これな」
三千院が下履きをむしると、その内側にぼんやり光る結界があった。それは両膝にまとわりつき、頑なに天逆毎の侵入を拒んでいる。




