ネズミーランド
女性デバイス使いたちの体が、海面に向かって落下していく。その先では冷たい海が、手ぐすね引いて待っていた。
「おっと」
しかし、彼女たちの体は空中で静止する。抗議するように、波がどうっと大きな音をたてた。
「少しそこにいてくれよ」
小さな鼠たちが、女性たちを支えている。彼らに指示を出しているのはディランだった。
「なるほどねえ、そっちからか」
ディランはつぶやく。さっきとはうってかわって、彼の全身は黒い一枚皮で包まれていた。
「皮膚から吸収される毒だね。これは口だけ防いだ程度では、どうにもならない」
ディランが指をはじくと、彼を包む皮の端がぼろぼろと崩れ落ちた。
破片は風に飛ばされることもなく、一定のリズムで回る。そして時々、ちちっと小さく鳴いた。
「さ、僕の可愛い子たち。向こうは不意打ちしてきたんだ、遠慮はいらないよ」
主に同意するように、鼠たちからかん高い声があがる。黒い獣たちは鼻を動かし、あたりの様子を探った。
「キ、キキッ」
そのうちの一匹が、敵の気配を察知する。彼は二回その場で回ってから、海へ飛びこんだ。
「キキーッ!」
それを見た他の鼠たちも、雪崩のように海へつっこむ。ディランはそれを見て、楽しそうに笑った。
「とりあえず僕に、このとんでもない事件の犯人を見せてくれ!」
ディランの望みは、それから程なくして叶った。群れをなした鼠たちに追われ、海中から何か飛び出してきたのだ。
その正体は、体を折り曲げた灰色の巨大なボウフラ。二本の角を忙しなく動かしている様は、鼠に苛立っているように見える。
目は黒一色で、愛想のかけらもない。ディランは理解し合うのをあきらめた。
「……君とは、仲良くなれそうもないね」
ディランが指揮者のように大きく手を振ると、再び鼠たちがボウフラめがけて突進する。
「ガアアア!!」
しかし今回は、ボウフラも黙っていなかった。化け物の全身に、細かい泡のような膨らみが生じる。
それは鼠とぶつかると、次々に弾ける。と同時に、今までとは比べ物にならないくらい強い毒が周囲にたちこめた。
「!」
毒には慣れているディランも、これには閉口した。毒の直撃を避けるために、女性たちを連れて空へ逃れる。
「参ったね」
とりあえずの危機は去った。しかしあのボウフラを逃がしてしまっては、他の仲間たちがばたばた倒れていく。
ディランほど毒に耐性があるデバイス使いは、国内にいない。それだけは自他ともに認めるところだった。
「ここは頑張らないとねえ。ただでさえ、僕は厄介者だし」
ディランは腕組みして考え込む。その間にも、ボウフラは新たな獲物を求めて動き始めていた。
「やー、まずいね。これはひどくまずい」
ディランは長く息を吐いた。
「一か八かだけど、仕方ないか」
ディランは肩をすくめる。そして再び、呼び出せるだけの鼠を海に放った。
「かわいい子たち、僕にチャンスをくれ」
鼠は黒い雨のように、海を目指す。彼らを追って、ディランもまた毒霧の中へ入っていった。
息がつまる。三ヶ月ほど放置した生ゴミの上に、誰かが吐いたような臭いだ。
(チャンスは一回。もたもたしてたら、やられる)
ディランは手を前にかざす。彼を守っていた鼠たちが、一気にボウフラにとりついた。
ボウフラの目が赤く光る。さっきよりさらに多くの膨らみが破裂し、鼠たちを落としていった。
(こいつ、学習してる)
しかも膨らみの出方が変わっている。前のように均一ではなく、最初に鼠たちが狙った首元や眼球付近を重点的にガードしていた。
(脳みそなんてなさそうな外見なのに。そこはやっぱり、怪物か)
ディランは少し、相手のことを見直した。
(──ま、でも単細胞だな)
そして大いに、自分の知恵に対しての信頼を強めた。
「鼠たち、そのままでいてくれよ」
ディランは、ボウフラの目のあたりに向かって移動した。まだ辛うじて、群れと言えるだけの数の鼠が残っている。
(よし!)
ディランはその鼠たちに指示を送る。それからボウフラの目の前で、派手に拳を振り上げた。
挑発に乗ったボウフラの体が、一回り大きくなる。身体中の膨らみが、今にもはじけそうだ。
だが、化け物の攻撃はそこで終わりだった。
真っ赤だった両目がみるみる色をなくし、体と同じくすんだ灰色にかわっていく。全身に出ていた膨らみも全て消えた。鼠たちの猛攻が、効いている証拠だ。
(残念だったね、相手が僕で)
囮の意味はなくなった。ディランは息をこらえたまま、空中で身を翻す。そのまま高度を上げ、新鮮な空気のある方へ向かった。
途中、眼下にちらりとボウフラの姿が見える。化け物は左右に不規則な痙攣を繰り返していた。
「大事なものをなくすと、ああなるんだね」
上から見ると、はっきりわかる。ボウフラの頭にあった二本の触覚が、根本からかじり取られていた。彼らは間もなく、水しぶきをあげて海中に消える。そして二度と姿を現さなかった。
「チチッ」
わずかに生き残っていた鼠が、ディランめがけてくっついてくる。
「よおし、よくやった。ゆっくり休みたまえ」
ディランが両手を広げると、鼠たちは彼のデバイス──ネクタイピンに飛び込んでくる。そこでようやく、ディランは呼吸を整え始めた。




