牙を隠すプロ
しばらく作業をしていると、ようやくさっきの男の問いに対する答えが浮かんでくる。すぐに言い返せたらどんなにすっとするだろうと思うが、こればかりはできた試しがない。
(何でそんなに、か)
その答えは単純だった。
(僕の家が、たまたま金持ちだったから)
予防医学というのは、とにかく金にならない。病気にならないのだから、まず入院代が発生しない。薬はせいぜい検査に使うくらいだから、使用量が激減する。消耗品の発注も落ち込むだろう。つまり、普通の病院が手を出すには危険過ぎるのだ。
予算をつけるには、医療費削減を盾にして国に迫るしかない。それには結果が必要で、自分がやるしかないのだと修は思っている。
(あーあ、言ってやりたかったなあ)
修は力なく笑う。午前中のノルマをなんとかこなし、昼食をとりに支部の外へ出た。近くの公園を越えたところにある洋食屋がお気に入りなのだ。
公園に足を踏み入れたところで、修はすぐ様子がおかしいことに気づいた。いつもは子供の声がしているのだが、今日は女がしゃべりまくっている。正直言って、耳障りだった。
特に聞きたくもないのだが、声は勝手に修の鼓膜を揺らす。
「ですから私たちは、政府からの一方的な医療の押し付けに反対します!」
「あれは私たちを、そして何より大事な子供たちを実験台にしようとする罠なのですよ」
「元々人間には、自然治癒力というものが備わっています。よって、一切の人工物は不要!」
小学生でも吹き出しそうな、馬鹿馬鹿しい理論に、修は黙って肩をすくめる。
(まだこの辺をうろうろしてたのか)
彼女らは、過激とも言えるほどに自然を崇め奉る市民サークルのメンバーだった。
修もその実態を知らない頃に、一度だけ会話したことがある。何か協力できることがないかと思ったのだ。自分が大馬鹿野郎であることを悟ったのは、会話が始まってすぐのことだった。
あくまで医療技術を最大限利用して病気を防ごうとする修に対し、彼女らは徹底して医療は不要と訴えたのだ。
(そうやって元気にしゃべっていられるのは、医療のために尽くした先人たちのおかげじゃないか)
怒鳴ってやりたいのを何とかやり過ごし、ようやく帰って来た日のことはよく覚えている。
(放っとこ)
修は足早に立ち去ろうとした。しかし足元に落ちていた子供のおもちゃに気付かず、派手にすっ転ぶ。
「いて……」
起き上がった時には、すでにその場の注目を一身に集めてしまっていた。
「あら、この前の先生」
「先生からも言っていただこうかしら」
「そうよ。特にこの季節は、ワクチンがいいわ」
「あれは菌を体に入れてるんでしょ? とんでもないわね」
……前回あれだけ渋い反応をしたというのに、全く記憶にないらしい。ある意味幸せな生き方だ、と修はため息をついた。
しかし、この内容を無条件に肯定するわけにはいかない。
「いえ、ワクチンは病原菌そのものを」
「ね、病原菌っておっしゃったでしょう!?」
「人の話はー、最後までー」
修は抗議したものの、このトロくさい喋りで目の前の人間マシンガンに敵うはずがない。
(これはまずいぞ。なんとか中断させないと、要らない汚名を着せられる)
鈍い修でも、それぐらいのことはわかった。ポケットの中の電話に手を伸ばした時、後ろから肩を叩かれる。
その力の入れ方に、修は覚えがあった。
「はいはい、おばさん。でたらめ広げるのは、そこまでにして」
修とは全く反対の、割り込みを決して許さない早口。あちこち薬品がつき、焼け焦げた白衣をまとった学生が、援護射撃に入った。
「誰よあんたっ」
「この人の弟。僕も飛び級組であそこに通ってる」
俊は顎で、後方にある支部をさした。あそこに通えるのは、特に学業優秀な学生のみ、というのは広く知られている。遠巻きにしていた人たちからの、ほうと声が漏れた。
しかし、おばさん呼ばわりされた自然派サークルの面々は別である。
「何よ、でたらめって」
「そうよ、病原菌が入ってるのは事実じゃない」
「そのままの状態なわけないじゃん。やったとしたら、この辺りは既に病人だらけだよ」
口元をつり上げて、俊が笑う。
「たぶん、『生ワクチン』のことを勘違いしてるんだと思うけどさ。医薬品に使うときは、ちゃんと毒性を弱める処置をしてるんだよ」
俊はずかずか進み、サークルの一人からマイクをひったくった。
「それに、ワクチンは全て生ワクチンなわけじゃない。病原体を完全に不活化した不活化ワクチン、毒素だけを抽出したトキソイド。この三つの区別がついてない人が、啓蒙活動なんて百年早いよ」
俊はつまらなさそうに手を振る。空気の変化を感じ取った数組の親子連れが、気まずそうな顔でその場を離れていった。
「でも、おかしいじゃない」
まだマイクを離さない俊に対抗して、女性たちが声を張り上げた。
「なんでそもそも三つもあるのよ」
「そうよ。菌をいれなくていいなら、全部それにすればいいじゃない。処置したって、危険はなくならないわ」
「それでこっちがどれだけ不安になるかなんて、考えてもみないんだわ。やっぱり子供を持ってない人たちはダメよ」
四方八方から飛んでくる声を聞いて、俊がにやっと笑った。蟻を踏み潰す前の小学生と同じ顔である。




