予防は金にならぬもの
「……うん、師匠。僕、決めましたー」
「本当かねえ。あんたはいつも、人より一拍トロいから」
それは頭の中で考えたことに、口が追いつかないだけである。しかし反論すると、長くなるのでやめておいた。
「僕、予防医学がやりたいんです」
修がそう言うやいなや、師匠が渋い顔になった。予想していた反応ではあるが、実際にされてみるとやはりこたえる。
「はあ。ま、あんたはまだ大学に行ってるわけでもないし。触ってみるのも悪くないかもね」
師匠はそう言って、最終的にはゴーサインを出してくれた。
「ただ、あんまりいい扱いを受けてる分野じゃないよ。大学までに、他の勉強も必ずやっとくんだ」
脳や心臓関係が、医者の中でも花形だと師匠は言った。しかし、元々動作の鈍い自分にそんな臓器は扱えまいと修は思う。
「だが、何で予防医学なんだい。あんたみたいに若い子なら、格好よく手術をしてみたいとか、そういう欲があるもんなんだけどね」
玉世が苦笑いした。家業のせいかなあ、と修は答える。
「家業?」
「うちはとにかく、仕事でいろんなところと付き合いがあるでしょー。お偉いさんも来る」
「何それ、自慢?」
「違うよお」
お偉いさんというのは、大体中年以上の年齢になっている。その後をしばらく見守っていると、残酷なまでに明暗が分かれてくるのだ。
年をとっても若々しく、新しい知識を吸収する人々がいる一方で、坂を転がり落ちるように大病にかかっていく者もいる。後者の衰えの速さは恐怖を感じるほどで、それには実の家族であってもついていけないことがままあった。
「お金は出しますから、できる限りそちらで面倒みてください」
そう言って、逃げるように病室から出ていく家族を、修は何組も見ている。かといって、ただ彼らを責める気にもなれなかった。
「人間ひとりが動けなくなると、少なくとも大人二人が介護に必要になる。うちならともかく、普通の家ではそんな状態に耐えられないからねえ」
修が言うと、師匠もうなずいた。
「家族だって、一緒に野垂れ死ぬわけにはいかないからねえ」
どちらもやりたくてするわけではない。この事態を打開するのに最も良い方法は、一つだけだった。
「だから、思うんだ。かかってから治すのではなく、そもそもかかるリスクを低くできないかって」
「ふうん」
熱弁する修に対し、玉世はつまらなさそうに鼻を鳴らした。
「もー、人が真剣に言ってるのにい」
「……あんたの言うことは間違っちゃいないよ。国の方針もそっちに向かって進み始めてる。だが、肝心な人の心がついてきてるかというと、なかなかね」
玉世は突然、哲学的な物言いをする。彼女は胸ポケットからシガレットチョコを取り出してくわえた。
「どういうこと、ですか」
修が聞いても、玉世はもぐもぐとチョコを噛み砕くだけだ。答えるつもりはない、という昔からのサインである。
「若いんだから、一回は自分で体験してみな。面白いことも、面白くないことも」
そう言って、師匠は不敵に笑った。
☆☆☆
学び始めてすぐ、修は玉世の言葉の意味を悟った。
まずは、学ぶ範囲の広さ。
栄養学、病原菌、衛生知識、遺伝因子など、予防に必要な知識は、思っていた以上に多かった。病気は一つであっても、それを発生させる原因は多岐にわたる。気づかなかった自分が愚かとしか言いようがなかった。
修は元々勉強自体は苦ではない。いつかきっと高みに登れると信じて、未知の知識を吸収していった。しかし、最大の困難はその後にあった。同僚と患者、その双方から存在を否定されたことである。
修は昨日までに言われたことを思い出し、うんざりする。そして今日もまた、違う人間が同じ台詞を吐くのだ。
(本当は、外出なんてしたくないんだけど)
しかし医学を修めるには、自宅にためこんだ本だけでは不十分だった。軍の古い資料を見るには、どうしても支部まで出向かなければならない。
(響姉さん、早くこっちもオンラインにしてくれないかなあ)
心の中でぼやきつつ、修はとろとろと自宅を出た。
バス停に立ち、車がやって来るのを待つ。自家用車で送ってもらえば速いのだが、それだと修が訪問したのが丸分かりになる。結果的には気づかれるにしても、少しでも長く一人きりでいたかった。
しかし今日は運が悪い。支部の門をくぐったところで、いきなり知った顔にぶつかった。
「よう、まだやってるのか」
修を見て、男は顔をしかめる。修はあいまいな笑みを浮かべた。
「いい加減やめとけって。そんなの、薬学と栄養学の奴らに任せときゃいいんだ」
目の前の男は、先輩風を吹かせて言う。修もこの男も、軍のデータベースにアクセスを許された特殊な学生であるが、男の方が数日登録が早い。
「面白い学問だよ。一人くらい、僕みたいなのがいたっていいんじゃないかな」
「でも、医術はやっぱり治してなんぼの世界だろ」
それは分かっている。しかしあくまで修がやりたいのは、発症させない術を見つけることなのだ。
「何でそんなに、一人で気張るかねえ」
頑として考えを変えない修に飽きたのか、男は去っていった。修はやれやれと息をつく。




