猫姫(と下僕)、降臨
ホールを入って、一番奥にあるドアまで進む。そこが、主と下僕の寝室だ。
「ぶにゃあ」
ノックをして入ったはずなのだが、部屋の主は不機嫌そうだ。ふごふごと鼻を鳴らし、うろうろと歩きまわって葵の匂いを嗅ぎまわる。幸い葵のことを思い出したのか、ふんっと鼻を鳴らされはしたものの、それ以上のおとがめは受けなかった。
ここの主は、この非常に太った真っ白な猫である。首と腹が完全に脂肪で覆い尽くされていて、寸胴とはまさにこのことだ。
しかし動きは意外と素早く、お気に入りの猫じゃらしを持って来ては葵の足元にせっせと並べている。これは遊べ、ということだろうか。それとも、ただ見せてくれただけなのか。
「やー、葵」
ここでは猫の下僕になる、葵の兄が顔を出した。さっきまで寝ていたらしく、ひと房の髪の毛が派手に明後日の方向を向いている。
パーマをかけたようなふわふわしたショートヘアの下で、人の良さそうな垂れ目が笑っていた。
「修兄、おはよう」
「おはよう。今日もいい天気だねえ。学校はどうしたのー」
「今日は休み。土曜日だろ」
「そうだったっけー?」
修はその見た目に似つかわしく、ゆったりと語尾を伸ばす方法で話す。珈琲どうかなあ、と勧められたが葵は断った。じゃあ僕は遠慮なくー、と修は電動のミルのスイッチを入れる。ががあ、と派手な機械音がし、主の立派な尻尾がぴんと逆立った。
「ああー、ごめんよマルさん」
修は申し訳なさそうに顔をしかめたが、マルの機嫌は悪くなってしまい、ぶにゃあぶにゃあと鳴きわめいている。『そのうるさい小童とあたしのどっちを選ぶんだい』とでも言いたげだ。
この気位の高い猫の本名はマルグリットという。よくピザで有名なマルゲリータの方で覚えられるが、下僕(兄)はこっちの音が綺麗だからといつも律儀に訂正している。イタリアに行ったらさぞや顰蹙を買いそうだ。
ミルの動きがようやく止まり、修が蓋をあけるとふわりと挽きたての豆の匂いが狭い室内に満ちる。マル姫はその香りをとらえるのに御執心となり、ようやく鳴きやんだ。
「で、どうしたのー」
「耳鳴りがひどくて」
「職業病だねー。ビタミン剤と循環改善薬くらいならあげられるけど、それ以上になると師匠たちのとこに行かないと駄目だよー」
葵が昔から軍学を学んでいたのと同じように、修は師匠について医学を学んでいる。見習いとはいえ簡単な風邪や軽症なら治してしまうため、身内はたいてい彼に最初に相談する。もちろん、国家資格はまだないため、身内以外にこういった処置を施すことはない。
葵は赤いシートと金色のシートを受け取って礼を言う。
「ほんとはすぐ師匠に会わせたいけど、今日は土曜だからなー。二人とも休みでいないんだよねー。鼓膜とかに傷がないかは調べたー?」
「一応帰還時にそういう検査はした」
「なら緊急性は低いかー」
修はほっとしたようで、再び珈琲をすすり出した。葵とマル姫は、揺らぐ珈琲の湯気をそれぞれの瞳で追い、共にひとつあくびをした。部屋に置かれた時計が、かちりかちりと時をつむぐ音が耳に入る。
その静かな空間に、どかん、と爆発音がいきなり飛び込んできた。
ガラスがばらばらと割れる音が続く。葵の横の窓がびりびりと震え、しばらくしてからようやくその動きを止めた。修は腰もあげず、外も見ずにひたすら珈琲に没頭している。デリケートなマル姫もこの音には慣れているらしく、お気に入りの猫ちぐらに入ったまま出てこなかった。
「兄貴は肝が据わってるな」
「これは慣れだよー。不測の事態に強いわけじゃないー。食器、洗ってくるー」
修が部屋の奥にある、小さな流しの前へ歩いていく。マル姫が、流しの横にある冷蔵庫に行くと勘違いしたらしく、すっくと立って下僕の後を追った。
葵がその後ろ姿を見守っていると、きい、と軽い音を立ててドアが開いた。ぱったんぱったんと妙に間の抜けた、スリッパを引きずる足音がする。
足音の方に視線を向けると、少年が猫のおもちゃが散乱する室内を、足の踏み場を求めて蛇行しながら葵の方へ進んでくる。
葵は足元に落ちていた猫用クッションを持ちあげた。ちょうど足音の主の進行方向に位置していたからだ。
残念ながら、スリッパの主は葵の思いやりに気付いた様子はない。あーとかうーとか意味のないことを言いながら、テーブルに置いてあった砂糖壺に突進する。
ぎこちない手つきで角砂糖をわしづかみにし、せわしなく口内へ叩き込んだ。一度では足りなかったのか、数回ロボットのように同じ動きを繰り返し、ようやく満足そうにげっぷを漏らした。
「そんなことばっかりしてると糖尿になるぞ」
「こうしないと先に低血糖で死んじゃうよ」
葵の嫌味を打ち返しながら、少年は砂糖壺から頭をあげてにかっと笑う。髪の長さは修と同じくらいだが、ストレートの黒髪を七三に分けて後ろに流している。
顔つきも、垂れ目で物腰柔らかな修とは対照的に釣り目で、きつい印象を与える。話し方は舌をかみそうなほどの早口だ。
流しから修とマル姫が戻ってきた。来客を認め、修が話しかける。
「当ててみようかあ。俊、またデバイスの研究ー?」
「いいや、正反対。デバイスを使えない一般兵を、強化する薬にしたいの。結局、部隊の多数を占めるのは彼らだからね。でもまた爆発しただけだった」
「まー」
「双子の勘も働かずか」
葵が面白そうに言うと、
「あれは一卵性のやつでしょー。僕ら二卵性だもんねー」
と俊が言い返してきた。
双子の兄の方、修は医学を専攻しているのに対し、弟の俊は化学や機械類に造詣が深い。去年ようやく自分用の研究室をこの塔の二階に建ててもらって以来、家にいる時間の大部分を彼はここで過ごしている。葵も小さい頃はこの双子の兄たちの本を随分読ませてもらったものだ。
「本当なら、兵がぼんくらでも勝てるようにするのが望ましいんだがな。今は研究所じゃそういう研究が流行なのか」
「あんまり貧弱でも困るでしょ」
「俊、ステロイドでもやるつもりー?」
「妖怪相手に、ちょっとムキムキになった程度ではダメだよ。あれは大量摂取したら副作用も多いし。修兄、今月の新薬でなにかめぼしいの出てた?」
「ないよー」
「なんだ、トロいなあ」
「急に何か出せって言われても無理ー。普通の薬ひとつ開発するだけでウン百億の世界なんだからー。
今注目は、なんといっても妖怪側から漏れてきた秘薬の類いだねー。軽く見積もっても数百年は彼らのもとで使われたから症例は十分ー。
それは俊のとこの担当でしょー?」
人間側は、戦後数十年を費やし、妖怪側から奪取した戦利品の研究を続けてきた。武器類については残念ながら得るものはほとんどなかったが、彼らの使用している薬類は人類に多大な恩恵を与えた。
特に河童族や鎌鼬の傷薬は、非常に高価であった組織再生を促す薬剤よりはるかに効果が高く、まだ治験中でありながら、「一般市場に出れば売り上げのグラフが一気に変わる」とコメントがついたほどである。
それにしても、毎回毎回入手困難な情報をよく知っているものだと葵は感心した。双子の兄たちは、デバイス適正はなかったため早期入隊組ではないが、いずれは軍への入隊をと希望を出している。
政界にコネはなくとも軍部にはある祖父と父はこれ幸いと手を回し、軍の研究所からデータを抜き出して定期的に送っている。勝手に『予習』をさせているわけだ。
「ああ、今日の報告はまだ見てなかった」
俊がポケットから携帯端末を取り出して、しばらく細い指でスクロールを続けた。
「いくつか治験は進んでるね」
「結果はー」




