愛しい我が家
この宮田は、葵の生家、三千院家の天敵である富永家の腰巾着だ。後ろ盾があるのをいいことに、戦況が膠着していた時は一切出てこず、形勢が明らかになってからほいほい足を運ぶという典型的な日和見主義者で有名だった。どうせ今回も、美味しい所だけ食おうと出てきたのだろう。
「上が、残党狩りには若造でなく、私の経験が生きると考えておられるのだろう」
「経験ね」
葵は鼻を鳴らした。周りの部下たちも、冷めた目で宮田を見下している。命がけの戦闘をしてきた隊員たちにとっては、死肉をあさりに来たハイエナは嘲笑の対象でしかなかった。
このゆで卵野郎への反論などすぐに百は思いついた。しかし、葵は口を開く代わりに軽く首をすくめる。
「分かった。後は任せる」
自分よりはるか上の意思で、もう決まってしまったことにごねても仕方ない。権力を持っていないというのがいかに不自由なことか、身に染みた。せいぜいここからひっくり返されんよう頑張れよ、と宮田に向かって内心で毒づく。
背後から、早くも宮田が指示という名目のもと、怒鳴り散らす声が聞こえてくる。耳鳴りの残る耳には宮田のだみ声があたりがきつく、葵は片耳をふさいだ。
しばらくその体勢のまま歩き続けていた葵は、突然背を軽く叩かれて立ち止まった。
「坊ちゃま」
「ああ、すまん」
三千院家の隊員たちが、葵の背後に並んでいた。居並ぶ十数人、気落ちして肩を落としているもの、怒りで顔に青筋を立てているもの、反応は様々だが全員失望しているのが明らかだった。
「このまま引き下がるのですか」
「そのつもりだが」
「しかし、あまりにも」
葵はいきり立つ部下をなだめるよう、首を横に振った。
「上が決めたことだ」
「これでは坊っちゃまも、苦労だけして何も残らぬではないですか」
「経験は積んだ」
「そんなあ」
周りがどよめく。大声をあげかけたた隊員が、葵の耳のことを思い出したのか、慌てて声を飲み込んだ。
「仕方ない。そもそも現内閣や官僚に富永の息がかかってるからな。もともと俺――というより三千院家を認める気のない相手に、何を言っても仕方ないだろう」
一佐以上の就任には、幕僚長に加え内閣の承認が必要になる。富永家が、大した能力者も出さぬまま軍隊内で第一位の権力を維持しているのは、昔から政界にコネがあるからだ。数代前からのし上がっただけの三千院家にそんなものはなかった。
「まあ、そう気を落とすな。せっかく出た帰還許可だ。帰ったら何をするかでも決めておけ」
慰めるべき主がちっとも表情を変えていないため、次第に部下たちもあきらめた。愚痴はなりを潜め、そのかわり帰ったら何をしようか、というだらだらとした提案があがりはじめた。
目を開くと、くすんだカーキの天幕ではなく、高い天井が目に入る。淡いクリーム色の天井に、等間隔で丸いライトが並んでいる。就寝用にぼんやりと灯ったオレンジの光が、寝起きの葵の顔に当たっていた。
布を揺らす風の音がしない。硫黄や土の匂いがしない。久しぶりに、屋内にいるという安心感がこみあげてきた。
半分寝た状態のまま起き上ったが、ぎいいいと耳奥を掘り進むような耳鳴りが起こってしまい再び体を横にした。昨日は帰還してから、即、家をあげての飲み会になってしまい結局医者にも行かなかったのだ。今日もいいか。昨日した怜香との約束が優先だ。
入口の扉の下に、新聞が三紙きちんとたたんで差し込まれている。しばらく家を離れていても、葵の習慣をきちんと把握してくれている。心の中で手を合わせつつ、ベッドから起き上がって新聞を広げた。
どの新聞も、一面は戦況を伝えている。葵は一字一句見逃さぬように、舐めるように紙面を見据えた。市民の戦況への関心は高く、各紙力のこもった文章が踊っている。戦勝を知らせる記事が大半を占め、気持ちが悪い。
そう葵が思ったところで、控え目にドアをノックする音がした。戸口の新聞がなくなっているのを使用人の誰かが目ざとく見つけ、主の起床を確認したのだろう。
「坊ちゃま、朝ですよ」
「ああ、起きてるよ」
「入ってよろしいですか。破廉恥な本を隠すなら今のうちですよ」
「……大丈夫だから」
ドアの向こうでひっひっひっ、と低く笑う声が聞こえた。がちゃりと重い音をたてて磨き抜かれた木でできたドアが開き、小柄な老婆が盆を持って入ってきた。
老婆は背筋を伸ばしたまま部屋の中央まですたすたと歩いて来て、盆を机の上に置く。手が空いたところで、情け容赦なく分厚いカーテンを開いた。
「眩しい」
寝起きの目に、強い朝の光が飛び込んできて抗議の声をあげたが、老婆は全く気にした様子もなく、次々に濃青のカーテンを開け放っていく。あっという間に、夜の余韻は消え、葵の眠気もどこかへいってしまった。
「目が覚めましたか」
「それはもう」
「ひひひ、良うございました。今日は葵坊ちゃまが一番遅いお目覚めですよ、お約束に遅れてしまいます。まあ、働いておられた後ですから無理もございませんが」
「それにしても寝すぎた」
「奴らの主力部隊に大打撃をお与えになったのですから」
「トヨ」
葵の口調がきつくなる。しかしトヨはこたえた様子もなく、淡々と言葉を続けた。
「……と、いうことになっているそうですが、実際はどうなのですか」
トヨが年の割には白い歯を見せてにやりと笑う。葵は肩の力を抜いた。
「信じてないんだな」
「あんな一方的な勝ち方ばかりできるはずがないでしょうが。トヨの頭は古ぼけてはおりますが、腐るにはまだまだ時間がございますよ」
トヨは皺だらけの顔をさらにくちゃくちゃにし、魔女のような笑い声をたてながら、ベッドの横のサイドテーブルに食事の準備をしていく。葵はその背中に向かって、自分が現場で見てきた戦況を説明してやった。
「それでは、敵の屍で平野が埋まったというのは大ウソでございますか」
「俺の指揮した狭いエリアではそういうこともあったがな。全体的に見れば、死傷者の数ではあちらの方が多いが、致命的な損害が出る前にさっさと引き上げて行く。諦めの良さと逃げ足の速さは天才的だ」
「臆病なのでしょうか」
「いや。何か企んでる……というより、時間稼ぎだ。決定的な何かがあるまで、暇つぶしをしている。俺はそんな気がしてならん」
「変なことおっしゃらないでくださいましな。はい、準備できましたよ」
背後でごとごと鳴っていた音がやんだ。葵が降り返ると、サイドテーブルに朝食の準備が整っていた。頼んでいたのは野菜ジュースだけだったはずなのだが、何故かその横にベーコンがたっぷり挟まったサンドイッチの姿が見える。見間違いかと思い何度か目をこすったが、こんがりきつね色に焦げたパンの姿が消えることはなかった。
「トヨ。飲み物だけでいいから」
トヨは葵に背中を向けている。この不良冥土娘は、普段は地獄耳のくせに時々耳が聞こえなくなる。それは決まって彼女の意思に反する内容の時である。人間、長く生きると体も自分に都合よく変わるようだ。
「はい、どうぞ。男の子はお肉を食べないと大きくなれませんよ。目指せ御館様」
あんな筋肉ダルマに誰がなるかと思ったが、にこにこしているトヨには勝てず、葵は諦めてサンドイッチに手を伸ばした。口に入れると、まず香ばしく焼けたパンとマヨネーズの味が広がり、甘みが口の中に広がる。続いて、挟まった厚切りのベーコンの濃厚な塩味、レタスのしゃきしゃきした食感、トマトの酸味が口の中に一気に押し寄せてきた。
「うん」
文句のつけようもなく美味い。しかし、寝起きの胃には重すぎた。四苦八苦しながらたっぷり挟まった具とパンをのどに流し込む。
皿を見る。まだ巨大なサンドイッチは三切れも残っていた。葵はこの強敵を前に、早くも腰が引けてきた。目を閉じて神に祈る。
しかし当然ながらサンドイッチは未だに皿にいる。睨み続けたらナプキンに化けたりしないだろうか。
しなかった。
「トヨ、もう降参」




