あの人は今
「ああ、重たいなこの爺さん!!」
河狸の巣穴に入ってきた朧が、悪態をつく。彼は大柄な男の体を、地面に向かって放り投げた。
べしゃっと嫌な音がしたが、投げられた本人は身動きしない。河狸が興味本位から、男の体をつついた。
「大丈夫?」
「死にゃしねえよ。鋼みたいな体だ」
朧は蛇の姿から、人間に化けた。河狸の巣は狭いため、そうしないと頭がつっかえてしまう。
「全く……夫婦そろってぐうすか寝てやがって」
ここで言葉を切り、朧は巣の入り口に寝かされている女を見た。彼女は河狸たちが結託して運んできたので、今も灰色の毛玉に覆われている。
三千院巌、『元祖、妖怪殺し』。
三千院紫、『元人間、今妖怪』。
相容れない経歴を持つこの二人は、れっきとした夫婦であった。
その関係に戻るまでにあれやこれやと面倒なことがあった。しかし今は幸せにやっていると思ったのだが……。
「朧殿、助かりました」
朧がぼんやり立っている間に、河狸たちの長が足元にいた。
「別に大したことはしてねえ。それより、空気穴は塞いだのか」
「できる限りは。しかし、全部というわけにはいきません」
「ちっ」
結果は分かっていたが、朧は舌打ちせずにはいられなかった。
「あの蜂に見つけられたら終わりだな」
「一応、草木で目くらましはしましたが……」
「時間の問題だろう」
のんびり水中を泳いでいた朧が、異変に気付いたのはしばらく前のことだった。
(……ん?)
急に水が生臭くなった。気になった朧が上を見てみると、得体の知れない真っ黒な液体が次々に流れこんでくる。
(やばいぞ)
殺しの気配をかぎ取った朧は、そこから素早く離れる。そして液体が届かない場所に着いてから、頭を上げた。
異様な光景が目の前にあった。街中からどろどろした黒い液体が川に向かって流れ、その量は徐々に増えていく。新たな流れを歓迎するかのように、大きな蜂が弧を描いて飛び回っていた。
「夢中になって見てたのが悪かったな。あやうく死にかけた」
どうせ妖怪だろう、とたかをくくって見ていた朧だった。しかし、吹き付けてくる殺気を感じ、反射的に水へ潜る。
ぶうん、という羽音がすぐ耳元を駆け抜けた時は、心底肝が冷えた。
「それで我らに知らせてくださったのですね」
「奴ら、見境無しだ。放っておいたらみんなやられる」
幸い、蜂は水の中まで追いかけてこなかった。なら、水辺の妖怪はとりあえず潜っていればいい。
しかし、中にはこの河狸のように地上と水中を行き来している種族もいる。朧は彼らに忠告するために、大急ぎで山の方へ向かったのだ。そのついでに余計な二人も発見して、肝を潰したという次第である。
「正体は?」
「わからん。見たこともない」
人間共がしくじったのか、天逆毎がしかけてきたのか。なにもわからない中で一つだけ確かなのは、じっとしていたら死ぬということだけだ。
「……他の巣は」
「一応、ねぐらは他にも」
川と一緒に暮らすと、常に氾濫の危険が伴う。巣ごと濁流に持って行かれる可能性もあるため、彼らの巣は複数あるのが普通だった。
「なら、移動の準備しとけ」
「しかし、それはできません。今は夏、我らの繁殖期でございます」
「忘れてた」
朧はほぞを噛んだ。通常、餌が最も多くなる夏から秋に子を産むのは理にかなっている。だが、今は最悪の選択だった。
「ぼて腹の女が山ほどいるな」
「はい。生まれたものも、まだ赤子なのがほとんどで……男衆がくわえて泳ぐにも限界があります」
この状況で移動を強制すれば、子供の命を選別しろと言うのに等しい。朧もそこまで言えず、唇をかんだ。
「こいつらが起きればなあ」
朧には確信があった。化け物夫婦が目を覚ませば、決してあんな蜂ごときに負けはしないと。
しかし彼らは期待に反して、死体のように横たわっている。
(ないものねだり、か)
朧は両手で顔をはたき、気持ちを切り替える。
「長、動ける若衆をいくらか避難させろ。残る奴は今から作戦会議だ。いざという時のためのな」
☆☆☆
「和泉さんのご容態は?」
母親にくっついて来ていた絹子が、おそるおそる口を開く。
「自発呼吸はあるし、問題ない。そもそも病気やないしな」
新が淡々と答える。事情をすっかり聞いた津田が、大きなため息をついた。
「知っとったら、少しは対策とれたのに。御神楽も殺生やわ」
「ことが軍事機密やからなあ」
「話す先が少ない方がええのは事実よ。……ねえ津田さん、手伝ってくれへんかな。このジジイ、思ったよりしぶとくて」
今井は津田をなだめつつ、ドリフト走行で逃げだそうとする淀屋の首根っこをつかんでいた。
彼女の様子を見た津田が、加勢に入る。しばらくして、ようやく静かになった。
「全く見苦しいこと。妖怪が目の前に来たわけでもないのに」
いく回りも年上の老人がもがく様子を見て、絹子が吐き捨てた。たちまち淀屋が気色ばむ。
「京まで来とるんや、目の前も同然やろがっ」
「だったらご自慢の装備でなんとかしなさいな」
「こんなことに金使うくらいなら、舌噛んで死んだるわっ」
「あら、大きく出ましたわね。止めませんからこちらでどうぞ」
顔色一つ変えずに絹子が言うと、淀屋が青くなった。
「やっぱり、できもしないのに大口たたいてただけでしたの」
絹子の辛辣なもの言いに、後ろで聞いていた親たちが苦笑いをもらす。




