真の惨殺者
「くくっ」
鞍馬から遠く離れたところで、天逆毎は低い笑いを漏らした。声は、時がたつにつれて大きくなる。
「ははっ、あはは……」
笑いすぎて腹が痛くなってきたところで、ようやく天逆毎は顔を上げた。古傷から出血したら面倒なので、この程度にしておかなければならない。
(全く、あの忌々しい鬼一法眼のせいだ)
天逆毎はため息をつきながら、腹をなでた。よほど強力に呪をこめたのだろう、あれから時が経ったというのにまだふさがっていない。
「……まあ、息子は出来損ないだということははっきりした。親父のツケは、アイツに払わせよう」
天逆毎はつぶやく。この前の疾風の間抜け面を思い出すと、ようやく怒りがひっこんだ。
(面白いくらいきれいにかかったな)
疾風に語ったことのうち、天逆毎は三つ嘘をついた。
ヴィオレットの裏切り。鬼一の遺言。そして黒幕の正体。
しかし、それ以外のことについてはできる限り真実を述べた。その方が信用が増すからだ。
(少し、あの馬鹿に有利な材料を与えてやったのにな)
天逆毎も、鬼一のことは買っていた。だから餞別がわりに、一つだけ逆転の目を与えてやったのだ。ところが、疾風は全くそれに気付いた様子はない。
(あれで奴の器は知れた。後はチヤホヤしてやって、有頂天になったところで地獄にたたき落とせばいい)
自分の計画が順調に進んでいることを確認し、天逆毎は悦に入った。
もう少し。あともう少し。
かすかに笑い声を漏らしながら、天逆毎は月光の中に消えていった。
☆☆☆
力を貸せと言っておきながら、その後、天逆毎は長いこと鞍馬へ来なかった。つるしておいた布もくたびれてきて、「そろそろ取り替えましょうよ」と見回りに言われる始末だ。
(もしかして俺は、からかわれただけだったのか?)
疾風がそう思い始めた時、再び彼女は現れた。しかも今回は他の者を挟まず、いきなり疾風の寝所に陣取っていたのである。
「……衝撃で死んだらどうしてくれる」
ようやく立ち直った疾風が悪態をつくと、天逆毎は笑った。
「それだけ大きな口がたたけるなら平気でしょう。今日は、私と一緒に来てもらいますよ」
侵入したことを詫びるでもなく、天逆毎は勝手なことを言う。
「今?」
「はい、直ちに」
「里の仕事がたてこんでる。それは無理だ」
戦が長引くと、どうしても男手が足りなくなる。要領の悪い疾風でも、里にとっては大事な働き手だった。しかし、天逆毎は一切引かない。
「今でなくては困ります」
「せめて夜にしてくれ」
「いけませんよ。夜には始まってしまいますからね」
だから何が。
疾風の頭をツッコミが駆け抜けたが、口から出てきたのは「はあ」という呆けた声だけだった。
「人間との最終決戦だというのに、腰が重いですねえ。あなたは特に、決着を楽しみにしていたと思っていましたのに」
「……それは間違っちゃいねえが、そんないきなり」
「気張ってことをしようとする奴ほど躓くのですよ。万全の準備があれば、大した決意などいりません。さ、参りましょう」
天逆毎は立ち上がった。仕方なく、疾風は側近にしばらく外出すると告げる。
「気が変わってよかった。鞍馬天狗の皆さんはよく働いてくださいましたので、良いものをお見せしようと思いまして」
「良いもの……?」
「見る価値があるもの、ともいえますね。なんせ、今の今までこの世に存在しなかったのですから」
天逆毎は答えたが、より一層謎が深まっただけだった。
(まあいい、ついて行けばわかるだろ)
半分捨て鉢になりながら、疾風は天逆毎の後に続いた。
北に飛ぶこと、四半時ほど。自信満々の天逆毎が降り立ったのは、周りに何もない山の中である。
「こんな外れで、何を……」
不満が疾風の口をついて出る。天逆毎はそんな疾風を見て、面白そうに笑うだけだった。
しきりに虫の羽音が聞こえてくる。里に残してきた仕事の数々を思って、疾風は舌打ちした。
「……ん?」
虫の羽ばたきが、次第に大きくなってきた。気になった疾風は顔を上げる。すると、空に黒い太陽が浮かんでいた。
(いや、まさか)
疾風は何度も目をこすった。しかしいくら見直しても、もう一つの太陽が消えることはない。ただ周囲を威圧するように、でんと空中に居座っている。
「二つも、陽が」
「あの黒いのは、陽ではありませんよ」
今までずっと黙っていた天逆毎が、口を開く。
「ただの穴です」
「……穴?」
「通り道、と言った方がわかりやすいでしょうか。あまり大きいとは言えませんが、彼らになら十分でしょう」
次の瞬間、赤く大きな複眼が、疾風の視界に飛びこんでくる。あまりの不気味さに、呼吸を忘れた。
一拍遅れて、ようやく複眼の主の全体像が見えてくる。全身真っ黒な大蜂だった。日本の蜂は大きくても大人の手指くらいだが、今いる個体は大人の頭ほどもある。
彼らの胸部はやや小さく、腹がぼってりと膨らんでいる。何より特徴的なのは、顎だった。獲物を押さえつけるために太い曲線になっており、足より長い。
こいつは生まれながらの狩人だ。疾風はそう確信する。
「実戦で使うのか」
「ええ、試しに一度戦わせてみましょう」
天逆毎はそう言うと、山の中へ消えていった。間もなく、一頭の猪が木々の間から飛び出してくる。
蜂がすぐに反応した。体が一回り大きくなり、羽が真っ赤になる。上空へ飛んだかと思うと、すぐに急降下してきた。
太い顎をがっちりと猪の肉に食い込ませ、蜂が体を沈める。猪は何度か痙攣した後、その場にくずおれた。蜂はそれを確認すると、関心をなくしたように飛び立つ。
(せっかくの獲物なのに?)
疾風は首をかしげた。その時、猪の体が徐々に紫に変色していく。全体が、真っ黒に腐ってきた。
全身を腐らせながらも、しばらく猪は生きていた。悲鳴のような高い声で鳴いた後、ようやく息絶える。




